「きっと誰だってあるだろう。ふいに気づいたら泣いてること。」
…本当に?
でも、私には無い。
どんなに心が重くて辛くて苦しくたって、
涙なんか出てきてくれやしない。
「ふいに気づいたら泣いてる」?
それってきっと、ある意味幸せだよ。
どれだけ苦しくても滅多なことがない限り…それこそ、実の親に人格や人生の全てを激しく否定でもされない限り、涙なんか出てきてくれなかった。
並大抵の苦しみじゃ、涙は私の痛みを肯定してはくれない。
それなのにさ、涙は痛みを、苦しみを、測るための尺度のひとつなんだよ。
いつだってそう。
泣かないから「平気そう」とか、泣いてるから「よっぽど辛いんだ」とか。
フラッシュバックみたいに辛いことを思い出しては心が重く苦しくなる、って言った時、カウンセラーの先生までが「そのとき、涙が出てきたりはしますか?」だって。
カウンセラーさんが悪くないのは分かってるけど、それって何だか「涙が出ないなら大したことない」って言われてるみたいでモヤモヤした。
でも実際、そうかもしれないって思う自分もいる。
いつだって、枯れている涙を理由に自分の苦しみを肯定できないのは他でもない私だ。
叫び出したいほど心が酷く膿んでも、じわりとも涙が滲んでくれないから、「泣けないってことはこんな痛みも全然大したことないのかな」ってどこか卑屈な自分が囁く。
それで、「涙も出ないような苦しみでうずくまって悩んでる人ヅラするなんて、なんて脆弱で情けないんだろう。」って自分が嫌になって、ずっとその繰り返し。
でも一度だけ、メンタルが極限までぐちゃぐちゃになって自室で好きなゲームのイラスト見てただけなのにボロボロ涙が出てきて、嗚咽まで零した日があった。
そのとき、ひどくしゃくりあげながら私は思った。
「やっと泣けた。私、やっぱり辛かったんだ。」って。
でもそれ以来、あんな風に泣けた日はなかった。
それからはずっと、「いっそ泣けたら楽なのに」って思うようになった。
また私の涙は枯れたように出てきれくれなくなったから。
世の中には色々な辛い目に遭っている人達がいて、それこそ本当に、毎日泣いてしまうくらい苦しんでいる人がいるのを、私は知っている。
でも、不謹慎だって分かっていても、私はそれが少し羨ましい。
涙がその苦しみを肯定してくれるから。
「こんなに泣くほど苦しんでるのに、どうしてこんな目に遭わなきゃならないの。」って。
私はいつも、「涙が出ないならまだその程度。甘えるな。」を繰り返してきたから。
もちろん、泣けたからって甘えられる理由にはならないかもしれないし、何も変わらないかもしれないけど、自分まで自分の苦しみをそうして否定してしまうのなら、一体何が私の痛みを肯定してくれるの?
泣いてる瞬間は、辛くて辛くてそのことでいっぱいになって、どうして、って思いながら、「今私、こんなにも苦しいんだ」って思える。
それすらない私の目には、「泣ける」ということが少しだけ羨ましく映る。
…こんなこと思う自分がまた、嫌で嫌でたまらないんだけど。
あーあ。
「不意に気づいたら泣いてる」なんてこと、私にもあればよかったのにな。
泣いて、感情を涙と一緒にぶちまけて、少しでも自分の苦しみを自分で肯定出来ればいいのに。
…苦しいな。
ななしさん
悲しい時に涙が出るってのは、
一般論であって、全ての人に適応する泣く条件じゃないよ。
多分あなたは、嬉しい時や感動した時に涙が出るタイプの人なんじゃないかなぁ。そういう人っているからね。
カウンセラーには、「私は悲しいとか痛いとかでは泣けないんです」って堂々と言ってやりなよ。それで人それぞれってのをわからないカウンセラーだったらちょっとねー。
でもまあ、確かに泣くとスッキリするから泣けるようになると楽かもね。
それこそ、好きな絵を沢山見るとか、いい話を読むとか、いい音楽を聞くとか、実はポジティブな行動の方が泣けるのかもよ。
泣く泣かないが辛さの指針ではないよ。自分で辛いと思ったら、辛いんだから。泣くなんて演出はいらないんだよ。自分に対して、もっと素直でいいんだからね。自分の感情を自分で否定すると、ホントは何なのか訳わかんなくなっちゃうよ。
色んな事、人それぞれでいいんだから、あんまり悩まないでね。