私は人の死について涙を流した記憶がない。
それが縁のない有名人であっても、顔見知りであっても、友人であっても、親族であっても。
人が死ぬと何故悲しいのか。
詰まる所『喪失感』だろう。
失ったものの代償の大きさが人の流す涙の量を決める。
しかし失えば失う程、絶望すればする程、流す涙は枯れていく。
私は、例えば身近な誰かを失ったとして、空気を読んで涙を出し、無理にでも流そうとするだろう。
自分ではない者への興味を失ったのか、最早絶望に慣れすぎてしまったのか、情が深い筈の私が何故こんなにも失う事に関して寛容なのか、考えたくもない。
人、物、夢、愛。頭の中は等しく抽象。全てが概念。そこに優劣はない。
仮に私が死んだとして、知らせを耳にした者の中には涙を流す人もいるだろう。
ただ、客観像の為だけに涙を流す私だ。他人の涙にも同じ根拠を押し付ける。
そして涙を流す余裕を心から羨みながら見下ろしているに違いない。
失ったものを数えてもきりがない。だが数えるのを辞めたその先に有るものは幸福でも救済でもなく、失い続ける事を受け入れた日常だけだ。
悲しくないから泣いていないのではない。
もう涙が出るほどの喪失感も残っていないのだ。
だから泣け。涙は希望だ。
喪失感を殺して得るものはない。
泣けるうちに泣いておけ。
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ななしさん
「数えるのをやめた先にあるのは〜受け入れた日常だけ」という言葉が刺さりました。ただただ受け入れるだけ、そうすることで自分の感情からも逃げてきてしまったなという思いです。
ななしさん
おう
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