子供の頃、友達の事を「価値」で考えたことなんてなかった。
そのとき仲良くなったから友達だったわけで、
選り好みしたり打算で付き合ってたわけではないはずだ。
なんで今は価値を考えてしまうのだろう。
毎回人と会って話す度にいちいち考えてるわけじゃないけど、1人になった時にふと考える。
自分にとっての相手の価値。
相手から見た自分の価値。
釣り合っているのか?
相手からの期待値を自分が誤解していないか?
大人になってから生産性だの単価だの売り上げだのと金に関わることだけを求められてきた気がする。
優しさだとか人柄だとか面倒見の良さだとか、数値で表せないものは評価してもらえないから。
だから全部の行動に対して価値を考えてしまうのだろうか。
職場でのコミュニケーションは離職者を出さないため。
自分が食事会を企画したのも上手く仕事を回したり、自分の味方を増やすための布石。
辞めたあとでも付き合いあるのは将来困ったときのツテを残しておくため。
そんな風に考えてしまう。
人に優しくするのは自分がそうされたいから。
自分に返ってくるための投資をしてるのだと。
見返りを期待しないということは、自分が相手にかけた投資が取るに足らないものだからとか。
こんな考えをするのは疲れる。
自然体で気にしなく生きたい。
ななしさん
大人になると、複雑に考えてしまうものです。
でも、そうやって立ち回ることは、悪いことではないと思います。生きていくのに、必死なだけ。
打算で優しくされたら確かに裏切られたように感じますよね。本当の情ではない、本当の善意ではないような気になって、悲しくなる。
でも、私は打算だとしても親切は親切だと思うんです。100%の真心じゃなかったとしても、その気遣いの一言に支えられることもあるし。
優しさは、打算でも別に構わないんですよ。
あなたはきっと、人が好きなんだと思います。
だから思ってる以上に、誠実であろうと、対等であろうと、役立とうと、好かれようと、してしまうのかも。誠実であることを、相手にも求めてしまう。大事に思うからこそ、難しくなってしまうこともあると思うから。
頑張って育てていた関係が裏切られたり、そういう経験があれば、人の信じ方も接し方もわからなくなって当たり前です。
それでも、疑いたくないし、見限りたくないって思うから、その矛盾が苦しいんだと思います。冷たくなりきれないんだと思います。
理性であれこれ言ったって、結局のところ心で理解しなければ、納得できないし、苦しいままです。
あなたなりの答えが見つかるといいですね。