太宰治の「人間失格」。自虐的なタイトルと捉えられがちだけど読んでいると違う。「こんな残酷な世界を発狂せずに過ごせる人間たちが理解できない」「そんな鈍感な人間にはなれそうにない」という苦難を描いている。
僕は大学を出て社会人になって、結婚もして、マンションも買って、仕事もホワイト企業だからストレスも少ない。子供はいない。端から見れば順調な人生だ。
でももう人生に限界を感じている。子供を作るつもりもないからライフイベントもない。あとは毎日働いて、定年を迎えて、暇つぶしをしながら死ぬだけ。そんな人生になんの意味があったのだろう。使命もなく、ただ消費し続ける人間が生き続けることになんの意味があるのだろう。
そんなことを考えずに済むように、人は子供を作るんだろう。子供がいれば毎日が忙しく、カラフルになり、ライフイベントも先20年は絶えない。親という使命まで獲得できる。生きている意味を見いだせる。なんて楽な生き方だろう。
その素晴らしさを受け入れられる人間はいい。僕は受け入れられない。
生まれていない存在に、苦痛や困難や死を強制させることが倫理的に合理的だとは思えないんだ。このサイトにいる人は理解できる側の人間なんじゃないだろうか。人間になんて生まれてきたくなかったということを一度は考えたことがあるんじゃないか。
誰しも一度は考える。辛いとき、苦しい時、涼しげな顔をして空を飛ぶ鳥を見た時、なぜ人間だけこれほどまで苦しまなくてはならないんだと。でも、大半の人間たちはその「人間である絶望」を「生きる意味」をでっちあげることで頭の隅に追いやってきた。そうすれば人間の本質に目を背けて楽しく忙しなく過ごすことができる。そしてそれを我が子にも強制する。そうして人間は続いてきたし、あなたも、僕も、そういった「強制された命」として産み落とされた。
僕にも何百人という祖先がいる。その人たちのバトンリレーを受け取ってこの世界にいる。何千年のバトンリレーをぼくが終わらせるのだ。子々孫々のように、人間の本質から目を背けて自分の生き甲斐のためにこの残酷な世界に生命を誕生させるなんて大罪は犯せない。僕は「人間失格」なのでしょう。