ぼくは、自分から声をかけることはない消極的な人間だ。
この独り言は、誰かに話しかけているものではないために出るものである。
「助けて」と書くことはあるが、これは、『実体』を伴っているかと問われれば微妙なところである。
“ その実、誰にも語りかけていない。” とするほうが、たいへん都合がいい。
だってぼくは、人と関わることに抵抗があるのだから。
しかし、話しかけられたら話す人間ではある。
ヘアサロンに行って、美容師さんと楽しくお喋りできるくらいには。特にこだわりはないため、何人かの美容師さんと関わったことがあるけれど、よく話す人、あまり話さない人……接客業である美容師さんにもいろいろいるものだ。
わたしはまあ、どっちでもいい。話しかけられたら話すし、話しかけられなければ話さない。たまーに、こちらから切り出すこともあるかもしれない……くらいで。
友達付き合いも、多分そんな感じだったと思うけれど。
昔のことすぎて憶えていないが、性格は変わっていないはず。昔から、消極的。小学生低学年の頃、ノートに文字を書く時手で隠しながら書いていた。指摘されて、やらないようになっていったけれど。
人見知りで、恥ずかしがりや。見られることに抵抗があるけれど、目立ちたい欲求がないわけでもない。演劇の舞台を見て、舞台に立ちたいと思ったこともある。これは、理想のほうか。
ボクとしては静かに平穏に、ひとりぼっちで(ひとりたのしーヽ(^^ヽ)♪(/_ _ )/♪)。を希望したいが。
生きるために、活きるために、ある程度は目立たなければならないという気がしている。ひとりじゃ生きられないため。誰かの助けをもらうために。
わたしの身体は、わたしの「死にたい」という希望とは裏腹に、生きるための行動を無意識にとっているのか。
意味わからないあれこれ。矛盾するなにか。すべてきっと……
無意識にとっていることに意識を向けたとき、自分は何をやっているのかという気味のわるさが生じ、それを認識することで辟易するのか。思考と、身体の乖離。実際行動していることと、思っていることとの乖離。
考えれば考えるほどわからなくなってくるのは道理。それが心地良い。私は現在非常に満足している。
さて、べつにこんなことを書きたかったわけじゃないはずだ。
ああ!そういえば。
わたしは家族に対しては今と同じようにお喋りだったりする。てきとーに話したいことを話しては、それを家族が聞き流す……くらいの感じ。関係性は、おそらく良好。
反応がほしいわけではなく、ぼくはてきとーにくっちゃべりたいだけだ。
それがまあ、小学生の時の友達相手や他人相手だとそうはならなかった(ならない)というだけの話。……あれ?もしかしたら職場(仕事終わり)ではわりと話してたか?
……わかんないもんだな。
やっぱりわたしは、その時、その時、自分がしたいようにてきとーに生きているのだろう。そしてその結果、大して悪いようにはならないという運の良さを持って生まれているんだ。それは実力かもしれないし、運命か、偶然か……
振り回される。よりは、振り回す側だろうか。
自分ルールがあるわたしは、自分ルールに沿わない人間に排他的である可能性がある。排他してるというよりかは、「私は私のやりたいようにやるから、貴方は貴方のやりたいようにやれば?」もし、どっちかのルールに従わなくてもいい状況であればそれで。どっちかのルールに従わなきゃならない場合、それは、わたしが従ってもいいと思えばそうするし、そうでなければ我を通してさよならバイバイ。
まあこれは、あくまでいまこの場の自分の思考でしかない。実際どうであるかは、どうかな?ってところ。
ちなみにとあるオンラインゲームだと、お互い我を通した結果、相手がさよならバイバイしちゃいましたね。
さてさて、どっちが悪者だったのか。ぼくは、どっちも悪者ではないと思うし、みんなもそう言ってたけれどね。
生きてるだけで、人を傷付けます。
同じくらい、人を癒やすこともできます。
みんなもそう。
ぼくだって同じくらい誰かに傷付けられているし、
同じくらい誰かに癒やされているのだから。
そうして生きていくのはつらい。
でも、そうして生きていこう。最低で、最高の自分で。
ありがとう。
ごめんなさい。
長くなったね。
そろそろ終わるよ。
ご飯を作る準備をしなくちゃ。
今夜はお雑煮を作るんだ。
じゃあ、またね