もしかしたらこの内容は、読む人を傷つけてしまうかもしれません。それでも自分の考えがおかしいのかを知りたいので書かせて頂きます。
ここで言う『呪い』とは、丑の刻参りのようなオカルトじみたものについて言っている訳ではありません。現代社会における同調圧力とか、『女性はこうあるべき』『社会人はこうあるべき』『一人前の人間ならこうあるべき』という規範意識を社会学者やエッセイスト、あるいは当事者が批判の意味を込めて呼ぶ時の『呪い』という表現についてです。
確かに多くの人は『何となく普通はこうするよね』という規範意識を確たる根拠もなく抱いており、それに基づいて物事や他者をジャッジすることがあります。コロナ禍と言われた時期においては、特にそれが顕著でした。
そして、当事者と呼ばれる人は『そういった無意識のこうあるべきが、私を苦しめている呪いなのだ』と仰います。
私はおそらく変わり者の部類(それも何か特別な才能を持っているわけではない、無能な方の変わり者)ではありますが、この『呪い』という言葉に引っ掛かりを覚えます。
自分の『本当はこうしたい』という思いと、周囲の『何となくこっちがいいよね』という思いは、しょっちゅう対立します。その時に『いや、自分はこっちで行くんだ』とするのか、あるいは『ここはやはり皆の意見に従っておこう』とするのかはありますが、いずれにしても決めているのは自分自身です。
自分の意思を通すなら、根拠を示すなり、賛同者を集めたり、成功事例を提示するなりといった行動が取れます。
皆に従うなら、自分の考えがそもそも間違っていたというなら正せばいいし、そうでなく皆が間違っているのだとしたら『それでもなぜ皆がそっちを選びたがるのか』を考えて、自分はどうしていけばいいかを検討するだけです。
どちらにせよ、決めるのは自分です。『賛成するか反対するか』『声を上げるか引っ込めるか』は常に自分が判断しているものだと思われます。
ところが、『呪い』という言葉を使いたがる人の中には『やりたいようにやらせてもらえなかった』『声を上げることすら許されなかった』といった表現がよく見られるように感じます。させてもらえなかった可哀想な自分と、自分を苦しめるひどい人たち。そんな世界観に基づいて話が進められているように感じられます。
その中には、身体的な暴力や心身問わないハラスメント行為、あるいは一種のマインドコントロールによって自由な行動・判断を阻害されているケースもある一方で、『それはさせてもらえなかったのではなく、単にあなたが自分で意思決定や決断をするのを怠っておいて後からグチグチ他人のせいにしてるだけなのでは?』と思わざるを得ないケースも散見されます。
ひどいものだと『あの時はAにしたけど、やっぱり本当はBが良かった。なぜAにしたのかって? それはあの時そのように強いる呪いのようなものがあったからに違いない! だから自分の責任じゃない!!』みたいに、風見鶏のようにくるくる意見を翻す目的で使っている人すらいます。こういう人は、反省という言葉が嫌いなようです。
長々とまとまりのない文章を書いてきましたが、おそらく人間は誰しも『何かや誰かのせいにしたい』という欲求を宿しているものなのでしょう。世の中にあるオカルト的な方の呪いとか神様とかも、もしかしたら何かの責任を体よく押し付けるための方便として人間によって産み出されたものなのかもしれませんし。
ただ、私は他石思考は嫌いというか、馴染めないです。
追記
昔読んだ斎藤環先生の本に、こんなフレーズがありました。
『日本人は無宗教ではない。神道でも仏教でもない、日本教という宗教の信者である。日本教とはすなわち人間教であり、その神髄は『まともな人間ならこうするべき』『まともな人間ならこんなことはしないはずだ』という強烈な規範意識である』