バイアスかかってる状態で接されたとして、フラットに思える言動をするのって難しいのかなあ……
確認のしようがなかなかないというか。
「私あなたのこと嫌いだけどあの時の言動は嫌いじゃなかったわ」
「私あなたのこと好きだけどあの時の言動は好きじゃなかったわ」
そんなふうに言ってくれて、フラットに見てくれてるんだなと感じられたとして。
ぼくの言動にそう思わせる力があった(努力が実った)のか、相手のフラットに見る力(努力)の結果なのか……
世の中にはいろいろと競う企画(テレビ番組とか)があったりして、審査員はフラットに見なければならないと思うわけだが、でもめっちゃその人の推しでどうしてもバイアスかかっちゃってさ……って時に、「あ、でも今のパフォーマンスはちょっと微妙だったかも」ってなったら「あ、やっぱ“人”じゃなくて“物事”もすごく重要なんだな」なんて考えられて…… そういう一連の流れに美しさを感じるというか、何を言いたいんだろうか私は。
たぶん私は、“私”じゃなくて“言葉”を見てほしいと思っているのかもしれない。あくまで今のこの思考の舞台上での話だけれど。
そして私は、普段“私”を感じている人に“私”を感じさせない言葉を提供することに興味があったのだろう。
それはいったいどういう言葉か。どういう表現か。
そういうことが気になった。そんな感じかなあ。
じゃあバイバーイ
お聴きいただきありがとうございました