仲の良い人たちと今日は遠足。
帰り、電車が急停車した。
次の駅まで目前というところで。
少しして、車内アナウンス。
対人接触事故。
告げる運転手さんの声が動揺しているのがわかった。
電車の中を見回したけれど、どの人も首を下に向けてスマホを見ていた。
誰も何も言わない。
隣に座っていた仲間と「最近、多いね」と言葉少なに話し合う。
少しして発車。
何度も「電車が遅れまして大変ご迷惑おかけしました」とアナウンス。
運転手さんのせいじゃないのに。
とにかく謝らなければ、相手構わず文句を言う人がいるからだ。お金を払って電車に乗ってやったと、権利ばかり振りかざすような人間がいるから。
なんの責任もなく、むしろショックを受けている運転手さんが謝らなくてはならないなんて。
ものすごい違和感とやりきれなさを抱えて自分が降りるべき駅で降りた。
もう何年も前、夜遅い電車がやはり人身事故で止まってしまい、近くにいた男の人達が「ざけんなよ!またかよ!」とか「迷惑なんだよ。どっかのバカがふざけやがって」と舌打ちして吐き捨てるように口にしていた。
誰も、走ってくる鉄の塊に飛び込むほどの苦しみを抱えた人に思いを馳せたりなんかしない。
今この瞬間、その人の家族でさえまだ何も知らされていないだろうに。
赤の他人が先に現実に遭遇しても、悼むどころ「迷惑」としか感じられないなんて。
線路の向こうで消えた命があっても、今この時のその人の存在が「迷惑」でしかないだなんて。
人々が考えるのは、早く家に帰りたい、明日も仕事、迷惑、遅れてんだから電車賃返してほしい、そういったこと。
こんな人間の社会だから、死にたくなるんだよ。自分の都合しか考えない人、苛立ちを他人のせいにばかりしている人、声の大きい人間の意見ばかりが正義とされてしまう社会だから。
私の従兄弟は電車ではないけれど、ひとりで死んだ。
大切な人を亡くした後で。
親も兄妹もいたし、長男である彼が継ぐべき大きな家もあった。
なのに、彼にとっては帰りたい家ではなく、家族は彼の孤独を抱きしめてくれる存在ではなかった。
そういうことだ。
心の苦しみは、結局のところ本人にしかその深さは分からない。
彼は絶望してしまったんだろう。
私にわかるのはそれだけ。
見知らぬ人。線路の向こうで命を捨てた人。
私は心の中でその人のために泣くしかできない。
可哀想に、可哀想に。
辛かったよね。
苦しかったんだよね。
胸が苦しくなる。
私の中にも深い深い孤独があって、これからどこまで続くか全く見えない人生を手探りで怯えながら行き続けなくてはならないから。
今日の電車を止めた人のことを私は永遠に知ることはない。
性別すらわからない。
ネットで調べてみても、事故のことは出てこない。
人の命の軽々しさ。
こんな世界だから。
私が消えても心の痛みなんて誰も知ることはない。
睡眠薬を、処方された2週間分全てのんだけれど、無理やり揺り起こされたら、怒り顔の母親が「何やってんのよ!」とわめき、フラフラと起き上がる私に「もう、知らないっ!」とさらに怒りをぶつけて部屋を出ていった。
私はただ気が抜けてしまった。
ふぅん。あんたは、こんな状況だって自分の感情のほうが大事なんだね。
睡眠薬、飲み干して死にたかった私の気持ちなんてどうでもいいんだね。
もし私が命を落とせば、あんたは哀れな母親になり切って、みんなから慰められて悲劇のヒロインでいい気分になるだけなんだよね。
だって、パパが病気で死んだ時もそうだったもの。
いつだって自分だけが可哀想な悲劇のヒロインでいたい人。
自分だけが主人公でいたい人。
そんなあんたの脇役人生で無意味に生きるのが嫌になったから、この人生から退場しようとしたんだけど。
どうでもいい。
バカバカしくなって、絶望して、どうでもよくなってしまったから私は自分の人生の傍観者に徹して生きてきた。
でも。
見知らぬ誰かの苦しみに遭遇してしまった時、私のなかの、まだ行きている苦しみが共鳴して泣きたくなる。