隣の人が蜘蛛を殺す。
我があるがまま、と言う事で何の気なしに殺すのだろう。
そこまで人の事に関心もない。その人が命を奪った事へ浮かぶ怒りや憎しみもなく、ものの哀れを思う。
仕損じたようで、足がなくなっているようだが、その蜘蛛は生きていた。
ならば俺もただ思うように、俺のわがままを満たすだけだ。
時間に余裕がある。草木のある所へ逃がしてやれる。
助けたなんて思っちゃいない。
足が3本以上なくなった蜘蛛が生存し続けるのは難しい。1本2本なら何とかなる。
しかし、位置にもよる。少なくともその蜘蛛は片側の前足が2本落ちていた。バランスを取りにくいため、歩きにくく、素早さも格段に落ちる。
そこを逃したところで外敵にやられやすく、餌を獲りにくくなっている筈で、その死の先延ばしは場合によっては辛いものだろう。
状況次第で俺が恨まれても何もおかしくはない。
ただ、同じく命あるものとして対等に接したいというだけだ。
そのまま弱った状態で動けず、俺の乗ろうとしてる車のタイヤに轢かれるよりは、俺の気持ちがマシになるというだけだ。
誰かが苦しむのを見ていられない人は、自分のわがままを通そうと、手を差し伸べる。
楽しみのために何かを害す人もいれば、お腹が空けば生きるために命を奪い食べる。
どれも自分を優先しているというだけで、本質に違いはない。
見て見ぬ振りをする。壊す。それはとても簡単な事だ。
手を差し伸べ、少しでも手助けを、助けをと、理想を求めるのは非常に難しい事だ。
積み木を積み上げていくのは難しくても、横から軽く蹴飛ばせばすぐに崩れる様のように。
どちらが上も下もなく、そのものに良いも悪いもない。
だが大きな違いはあるのだろう。
小さなものは大きなものを知ったからこそ、大きなものを警戒できる。
同じ小さなものや、より小さなものへ気を配ることができる。だが、その大きなものへの恐怖を拭い去る事が難しい。
大きなものは知らずに踏み潰していくだけだ。
それが嫌なら、大きなものこそ自ら、小さなものには気を付けなければならない。
圧倒的な大きさには、小さなものが幾ら気をつけても潰される。
大きなものはまず、自分が動く時に、小さなものを吹き飛ばすような暴風を起こしている事に気が付かなければならない。
そして、その小さなものが、スズメバチのように命を脅かしかねない毒を持つ可能性を恐れなければならない。
人の心は小さな虫のように些細な事で潰れることもあるものだよ。
広大な宇宙のように、毛ほども響かない事もあるものだよ。
そして、潰れれば二度と元には戻らない。
人の心が元のように戻れるまで長い年月を、10年をも要するだろう。
それまでに命がなくなれば元も子もない。
その責任を誰が取れるというのだ。
お前は潰した心の責任を取れるのか?
存在したかもしれない生涯を償えるとでも?
いつ誰に起こすか、誰がどう受け取るか、そんなものに気をつけようがない。
今を生きるのに精一杯だ、人の事など気にかける余裕もない。
どれだけ新芽や雑草を、小さなものを踏み潰し、数多の見えない微生物を消毒液で殺してきたかなんて、数える事もできない。
今もまさに腹の中で細菌達が生き、殺し合い、死んで行く最中だろう。
そんな事まで気にしていられない。俺たちだっていつどんな目に合うかわからないんだ。
でも、できる事はあるだろう?
帰宅すれば、タイヤに轢き潰されたカエルに虫がたかっている。
それが嫌なら、それでも気を向けるしかない。
掃除をすれば多くの蜘蛛の棲家を破壊し、小さな子供たちを路頭に引き摺り出し、殺す事になる。
それでもしなければならないのなら、自分の行いから目を逸らさない。
悪意と害意を、利己のみを持って与える存在にはなりたくない。
利己と他人の益とを混ぜて、己のイメージで目の前の現実が見えなくなるような事にはなりたくない。
これなら逃がせると思った羽虫を、力加減を誤り潰してしまった所で。
虫を上手く逃がせたつもりの所で。
取り返しのない明日の日はやってくるのだから。
命の儚さと死の無情さだけは多少知っている方だ。
この世の不条理と惨さは多少知っている方だ。
この世に平等がないのだからこそ、公平に生を尊重しよう。
自分の事も、他人の事も、ただ等しく、対等に命あるものとして。
少なくとも、そうすれば大きいも小さいも関係なく、まだマシにはなるだろうと。
…とはいえ、鬱陶しい蚊は叩き潰す。
ほんの少しの血の量でも相当な栄養になるはずなのに、腹をパンパンに膨らませて、飛ぶのももたつくくらいに欲張りすぎる奴が多い気がする。
日本の気候が変わりつつある中、お前達がマラリアを媒介しない保証もない。
この心に余裕があれば、目に見える範囲で、疲れない程度に…、窓ガラスに何度も頭をぶつけて外に出たそうにしているハエぐらい逃してやろう。
家の中にいられても、そこで死んでカビの元になられても困る。
心にモヤを抱えたくないから、そう生きていく。
せめて逃した分、少し良い思いをして生きてくれればと願うのは、虫のいい話だな。