『知り合いが自殺してしまった。
死ぬくらいなら相談して欲しかった』
そんな小瓶に遭遇すると2つの感情というか思考が走る。
相談してくれたら助けられたかもしれない。
残された人は無念だろうし、気付いてあげられなかった罪悪感とかに苛まれるのだろうという同情的な共感。
それと同時に死んでしまった人はもう助けられなかった。
相談できる状態ではなかった。
相談したところでダメだと思っていたから死を選ぶしかなった。
『相談してくれていたら』
『自分が気付いてあげられていれば』
そんな『たられば』なんて無駄だし自分の罪悪感を和らげたいだけじゃね?
などという冷めた感情。
その2つの思考を俯瞰してる自分。
…これじゃ2つじゃなくて3つか?
思考が2つ出てくるとめんどいんだよな。
今は死にたいって思ったら無理くりそれを否定する思考を呼び出すようにしてるけど、そもそも死にたいなんて思考や感情が出てこない方が楽なんだ。
宛メで飛び交う数多の返事も誰かの複数の選択の思考から選ばれたもので、さらに運営のフィルターを抜けたものに限定されてるとなると真実はどこにあるのかとなってしまう。
信じられるのは自分だけだからこそ、自分の言葉には嘘をつきたくない。
故に迷ってる状態で返事は書けなかったな。
考えるのだるいな。
ふいに死にたくなる
そんな時は思考を切り替える。
死にたいなら死ねば?
本気で死にたいなんて思ってないくせに。
死にたいなんて言ってるうちは甘えなんだから生きろ、ってな。