すぐに他人を許してしまう私は「甘い」なんて称される事が多かった。
でも、自分だけの正しさに固着して相手を許せない方が、私にとっては「甘え」だから。
そもそも「許さない」って、どのような状況なのだろうか。
永遠に責め続けること?
好意を一切向けないこと?
国語辞典を引けば一発なんだろうけど、辞書的な意味なんてどうでも良い。
表面的な話をしたい訳じゃない、実状と思考について想起したいのだから。
人をただ責め続けて、何か変わるだろうか。
起き上がれないくらいに叩き壊して、いざその人が死んだら、「悪者は消えた」と笑えるのだろうか。
根本的な問題解決も、未来への教訓も、何一つ得られないじゃないか。
勿論、「許さない」事と「責める」事は同義ではない。けれど、今日日の風潮を眺めていると、一体化している部分も少なからず在ると思う。
「悪」を裁くためなら、何をやっても良いのか?
相手が「悪人」であれば、何をやっても良いのか?
大義名分があれば、どんな行為も正当化されるのか?
悪い子のあたしはそうは思えなかった。
善悪なんて簡単に流転する。
百年前の常識は現在では通用しないし、昨日の正義は今日の不義理なんて事はよくある。
持っている情報だけを見れば悪人でも、切り取られていない事実を見ればそうではない、なんてのは情報化社会では頻繁に起こり得る。
変化し続ける価値観の中で、自分だけの正しさを根拠に人を裁くなんて、あたしにはできない。
けど、合わない人や嫌いな人は勿論存在する。
自分が被害者になることもある。
苛められたし、物も隠されたし、付き纏いにも逢った。
特に女性蔑視や民俗差別に関しては怒りを覚えるし、そういう発現をする人に憎悪に近い感覚を覚える事もある。
あたしの倫理学でのテーマが差別関係だったからだけど。
これを許せるようにならなきゃ、あたしも偉そうなこと言えないよな。
なんて言ったところで、これはあたし独りだけの自分勝手な独善で、誰かの行動を批判したり、振りかざしたりするための物じゃない。
正義なんてそんなもの。自分自身で貫くことはあっても、押し付け合っちゃ息苦しいもの。
それに、あたしの考えは性善説とカント哲学がベースだし、それを通っていない人からしたら意味不明でしょう。
掲げる考えは違って良い。
といいつつも、人それぞれに正義があるという「道徳的相対主義」に関しては真っ向から批判するけど。
身近なもので、凄く「許さない」事があるなぁ。
期限を守らないやつ。瞬間的に責めはするけど、それ以降は言及しない。それだけは何とか気をつけているけど。
信用だけはしてないな。
あたしもまだまだ、未熟ね。
ps:作詞できなすぎてマジでしんどい。せっかく良い曲作れたのに。