『差別のない、平等で多様性のある社会へ』なんてよく聞くけどやっぱり名前で区切られちゃうのよね。
それ自体は必要な事だと思うけど区別を差別と誤解してしまうマイノリティって結構いる。
もちろんマジョリティだって誤解することはあるけどさ。
かくいう私も誤解して勝手に傷ついてしまったこともあるし。
最近だと「区別しすぎてそれぞれの箱に貼る名前シール足りてなくない?今名前を付けようとしているその箱の中の人達は本当にそれを望んでる?」って思ってしまうことも多い。
でも区別と差別の違いを見極めることはとても大切なこと。
区別を差別だと思い込んで悲しみを他人をぶつけてはならないし、差別を区別だと思い込んで他人に勝手なラベルを貼ってもならない。
けれどそのどちらも皆んな無意識のうちにやってしまうこと。
今の世の中は色々と難しいね。昔も大変だったけど。
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『差別のない、平等で多様性のある社会へ』
その言葉の頭には''自分達にとって''という言葉が隠れているんですよね。
自分達が優遇される世界。
あるいは自分達が冷遇されない世界。
人が人である限り平等なんてあり得ないと私は考えます。
何を基準に比べるか比べないかだけの違いでしかないと。
ななしさん
昔は、声をあげることすらできない、もしくは声をあげると黙殺されるか排除されるくらい、日本では集団に馴染めない者に対して残酷だった。
現在は、海外輸入されたレッテルで分類されているとしても、それで安心感を得られ、同志を確認できるようになったのなら、まだマシになったのかもしれない。
底流は変わっていないことを忘れないようにしないと、思わぬところで足を掬われる危険は、相変わらず残っているけれどね…
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