名前のない小瓶
自己肯定ありき。
それがあれば、なんでもできる。
自分を肯定できている分しか
他人に与えるものなんか持ち合わせていないとすら
ハッキリ思っています。(精神的な自立)
「私はいいんです・・
私自身はどうなっても・・
あなたの幸せが私のしあわせです」と
言うような人は、どう見ても
自分のことはないがしろ、前提の行為だから
もし、その「やさしい私の」親切を
他人が断ってきたあかつきには、
たいてい、鬼の形相、逆恨みが関の山です。
(自己犠牲ちゃん)
聞こえはいいけど、無視します。
ろくなもんじゃない。
自己肯定に至るには
後天的であれ
愛情を食べた経験がないと難しいと思います。
生育環境などによっては
それが難しいという人も実際いるし。
自己肯定自体も、
じぶんのすべてを好きになる!と
なかには曲解している人もいるけど
私は、いつも同じことしか言わないけど
それは全く違うと思う。
自分の中のゲスさも甘さもゆるさも
いいとこも悪いとこも(自己判断になるけど)
「あーあー、全部じぶんなんですよっ!」と
認めることだと思っています。
他人が出来ることは、
あくまでその人の中に潜在的あるものが
自然と目覚めていくためのお手伝い、
伴走のみだと思います。
(情報提示、傾聴くらい)
自分の生活を犠牲にしない程度にです。
ランナーとコーチの関係というか。
実際は知るのは、ランナーさんひとりだし。
所詮は、自分のことは自分にしか
選択を変える権利はないと思うので。
(おわり)