日記帳みたいな。音楽の事とか。
興味ない人にとっては何言ってんだこいつ状態になるだろう事は承知の上です。
失敗した。
大局的に見たら、あと10年ぐらいしたら、あの時はこんな事もあったねぇと笑う類のものかもしれない。
しかし、私の行動で、少なからずの人たちに迷惑を掛けた事は確かだ。
これが仕事である以上やっちゃいけない事だった。
浮かれてはいけないといつもいつも頭に入れていたつもりなのに、
どうやらぷかぷか浮き輪で呑気に浮かんでいたのは自分だったようだ。
酒を飲んで忘れられたらいいなって思う。
しかして私は殆どアルコールを受け付けない体質で、かつ酷く酔いつぶれても苦しい記憶はばっちり残る方だ。
恋人に逃げられたらいいなって思う。
しかし私には愛を囁く相手も、囁いてくれる相手もいない。ディスプレイの中にもいない。
思い返すと昔から失敗した後はこうだった。
取り返せない事が苦しくて苦しくて、無力な自分が悔しくて悔しくて。
だけど、人前では絶対に落ちこまないようにって決めている。
むしろ失敗した後の方が普段より元気にって決めている。
私はこれが「正しい失敗の作法」だと思って生きてきた。
でもそれは違うかもしれないと今日思った。
私のやり方は、結局あんまり反省していない感じがするし、なにより結構きつい。
何でもない事を何でもないフリをするのは大分きつい。
でもそうしないといけない、と刷り込まれているんだと思う。
原因も、あの時言われたあの言葉を真に受けているからかなぁ、って多分分かってる。
我ながら呪われている。外す事のできない装備を随分抱えたまま遠くへ来てしまった。
んで、こういう時は音楽を聴く。何回も聴く。それこそまるで飲んだくれのように。
今日はthe ピ―ズの「シニタイヤツハシネ」をリピートしていた。
(そういえば最近tomovskyの引用をしたお手紙ありましたね。その方ならきっと知っていると思う。)
これ過激なタイトルだと思うじゃん?
でもなんというか、自殺志願とかそういうんじゃないんだ。
はるの詩はやけくそで、捨て鉢で、諦めに満ちているんだけど、一匙分ぐらいの希望が残っている気がして、痛いけど居たいというか。
そこまで言っちゃう?みたいな感じで、嘘っぽさが全然ない感じとか。
たまには死にたいって思う時はある。昔は小指の先っぽ分ぐらいだったのが、最近不調なのか右手分ぐらい死にたいときはある。
多分誰にでもあるんじゃないかと思ってる。
それを否定してはいけないと思う。
自分の気持ちを自分で認められなくてどうするんだと思う。
死にたい苦しさって、他人はおろか、自分するそれを認めようとしないから、自分の無意識が苦しんでいる分なんじゃないかな。
つくづくそういう割り切りが下手くそな人生を送ってきたし、これからもそうなんだろうと、またため息。
苦しさを理解してくれるものがあるといいね。それが他人ならなお良い。
ただ、分かってくれるものがあるから、なんだよやってらんねーなとかいいながら、
まだなんとか、がたがた言わせながら、「生きている」。
そんで、落ち込んだ日の最後には生きている/中村一義を聴くのがお決まりになっている。
祝福に満ちたホーンで始まるボロボロの列車の旅路は、果たしてどこへ向かっているのか、そもそも行き先があるのか分からないけど。
個人的に中村一義が画期的だと思うのは、シチュエーションを問わない優しさだと思う。
その人のバックグラウンドを全く問わずに聞けるのがいい。私みたいな空っぽに対しても実によく染みる。
「みんなを待つ誰かが、みんなが待つ誰かと、出会えるといいな」なんて、こんな都合のいい事そうそう起きるわけないのに、
もしかしたら明日とかはいい事あるかもなーって思っちゃうのは自分がちょろいからなのか。
でも大体ひねくれ者で、人が好きなくせに人付き合いが下手な私でも思うところがあるのは素晴らしい事だと思う。
この歌はほんと好き。本当に好き。
生きろ!って煩い訳でもない。大丈夫だよ、と優しい訳でもない。
がたがたでも、どうにか生きていく事を選んだよ僕は、と言われているみたいに感じる。
絶対に交わらない線路を挟んで、お互いに手を振るような、そんな気持ちになる。
それで構わない。だって互いに生きているんだから。
さあ、明日はまず謝りに行こう。
大丈夫。私はまだ生きているから、いつかこの分も利子を付けて返せるさって言い聞かせながら眠る。
だって列車は走っていくのだから。今日も明日も。