ひとりごとです。
悲劇のヒロインになりたがる私は、好きなのに一緒に居ることができない人を好きになります。
その中で猫かぶりな私が好きになれる人は、たくさん居るけど、ありのままで居られる人は、なかなか居ない。
私の周りでは、外の顔と家の顔と複数両立できる器用な者が多いけど、私は、不器用な方だと思う。
だから、誰と会うにもありのままになることが出来れば、私の人生において器用な者たちを手に入れるよりも素晴らしい物を手に入れられる。
そりゃあ、器用な者たちがくれる物は、見た目だけの物だから、その中で捨てられたり、捨てることは、日常茶飯事です。
私は、この歳で行けない場所に行けた私は、魅力的と思って欲しかったけど、若いっていう価値しかない。
当たり前の存在は、私の長所を伸ばせる仕事や人と関わる経験、自立を進めてくれる。男の人に奢られない、我慢しない、媚を売らない生活を初めてしている。
誰とも比べない自己嫌悪も少ない生活ができるようになってきたのは、当たり前の存在に対して怒ったり、拗ねたり、ワガママいったり相談したり甘えたりできるからかな。
たっぷりの愛情があれば、折半で自立型でも満足できるって、対等な方がとってもいいって知った。
嘘っぽい笑顔も言葉もしなくていい、使わなくていい。お酒を飲まなくても楽しい生活をしている。
恋愛感情が薄くても 彼が居なくなったら生きていけない。
器用な者に恋愛感情は生まれるけど居なくなっても、生きていける。
これが私の結論だと思う...から
不純なことをせず、生きようと思いました。
不純なことから抜けることは難しいけど ありのままの自分で居ることは、そんなことよりも楽しいし、楽しむことにしたよ。
ななしさん
楽しさとかは本人が行動起こさない限り楽しさを感じれないと思う。
私は少し前まで楽しいとかを感じれなかった。
学校で話す人はいたけど、その人と何度も対話したって、相手が私にさらけ出してくれないんじゃ私だって相手と一緒にいたってつまらない。
いつも当たり障りのない会話したってアニメとかの話をしたって、何だか楽しいとか感じないし、ただ暇つぶしのためだけに話されている気しかしない。
他の授業で一緒になった知らなかった人達と仲良くなっていくにつれ、元々よく一緒にいた人に対して思い入れも無くなってきた。
何度話したって相手が私に気を使ってばかりいては私だってつまらないと感じる。
それに元々いた人は人にあまり興味がわかないらしい。
私の事も大して興味がないのでしょう。
卒業したら連絡もなくなり、遊びもしないなら深く関わる必要もない。
帰りだって話す内容もない。
性格が合わないとこんなにも違うのか。
いまよく一緒にいる人達とは気も合うし、話す時も楽しい。
彼女の考えている事が分からない。
私は楽しく学校生活を送ろうと思う。