ぼんやりとわかった。
私は愛がどんなものかわかっていなかった。
他人からの愛も、親からの愛も、子供への愛もわかってない。愛されるとは・愛するとはどういうことか。愛されていないのかどうかさえよくわからない。
我が子への愛もただの依存だったのだろう。母からの愛も私に愛をわかる能力? がないからわからないのだろう。
そして私は母親ではなかったのだと気付いた。だからといって自分が何なのかはよくわからないが、少なくとも成長し私を否定するようになった子供に要らないと思ってしまった人間は母親とは言えないだろう。
何より幼い。体だけ年を取って、年相応に仕事はしている。だけど精神が幼い。全てはそれだ。それをまた自分が悪いのに認められない。やはり幼い。
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ななしさん
原因論はいったんストップしてみませんか?
例えば、殺人犯にしても、いじめや虐待されたからそうなってしまったのかもしれないし、そうなるといじめた人も同罪と言ってもいいかもしれないですし、
追求すればどんどん加害者が増えて行くだけで、誰かのせい、自分のせいだと思い込むほど辛くなり、思考ストップになってしまってだれも幸せにならないのかなと…。
私は投稿者さんのお母さんにも、投稿者さんにも、お子さんにも幸せでいて欲しいなって思います。
そのまま、ありのまま、悩みを抱えたままの投稿者さんが好きです。
とっても愛おしいです。
一度、ジャッジするのをお休みしてみて欲しいなと思います。
なにか違うなぁと思った人がマイペースにゆっくりよいと思う方向に流れて行くだけでいいと思うんです。
どうか責めずに、この環境だったからこういう経験をしているだけなんだと状況を遠くから観てみてください。
内観ワークというものがあるのですが、心に握り締めている気持ちを電球に例えて、今はこういう考えに電球がついていて、こうなったらいいなという方に電球を付け替えるというイメージトレーニングがあります。
例 地味な性格(と思っている)にライト
↓ 理想の状態の方に外して付け替える
明るくて活発(こうなったらいいな)にライト
地道ですが、効果が出ている方も多いみたいです。
気になりましたら調べてみてください☆
子どもの直接的な否定は、往々にして愛を求めるもののそれを与えられない苛立ちから来ていると思います。要らないのではなく、与えて欲しいの裏返し。
精神が幼いと言われていますが、その判別をされている時点で、それが分かるという時点で、私には相応の成長をされていると思います。その気持ちは幼いではなく、思うように生きてこれなかった後悔や残念、寂しさではないですか?
後悔や残念、寂しさにいい悪いはないと思います。
お子さんを必死で産み落としたその瞬間の愛おしさを、あなただけでなく、母親は忘れてしまうことがある。日々の暮らしに紛れて、もっともっとと思ってしまうから。
でも時にあの瞬間の愛おしさ、喜びは、頭の記憶にないかもしれないけれど、体験の中で体のどこかには必ずあると思います。だから愛を知らないということはないだろうと思います。
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