どうして宛メなんだろう。誰かの目に
留まっているということがどこか安心
するからかもしれない。相談する相手が
身近にいないというのもあるし、社会人
になると、それぞれ日々が忙しく、日々
考えていることを話す余裕がなくなり、
打ち明ける場所がなくなる。暇だから
考えるのだが、余計なこと、悪なのか?
個人的には、この時間が自分にとっての
至福を与えてくれる生きる意味だと思う。
今年は我慢を少しずつやめたい。
何かをしなければ、働かなければ、暇な
時間があってはいけない。結果を出す
べき、家庭を築くべき、社会貢献をすべき、
愛されるべき、認められるべき、いい成績
を残すべき、できる人であるべき。それは
言い換えると、結果を出すために、家庭を
持つために、社会貢献をするために、愛さ
れるために、認められるために、いい成績
を残すために、できる人になるために、
何かをしたり、働いたり、暇な時間を
削ったりしたくない。
それは愛することではないから。条件付き
でコントロールしようとする、ロボットと
同じだから。つまりすべきことは元々ない。
生存の安心を得るために自分に課していた
罰のようなものだ。子供の時は、親からの
援助がなければ生きていけなかったが、
今は違う。生存の安心は外から得る必要が
ない。自分で与えることができる。
供給源のパイプを繋ぎ変える。生きて存在
していいんだよというのはいつでも保証
されている。だからそれを得るために
頑張ることは何もなくなる。その環境に
慣れていないので、どうしたらよいか
分からない。しなければならないことが
なくなったとしたら何をする?自分の存在
そのものを表現する。自分の姿は自分以外
のものを通してしか見ることができない。
では何かに映った自分が全て違った場合は
本当の姿は一体何なのか。それに頼るより、
こうして自問自答すると答えがポンと出て
来る、内側から出て来るもの。それも日に
よって変わる。何を拠り所にしたらよいの
だろう。ただ仕組みみたいなものは少し
ずつはっきりしてきて、というより今まで
問って来たことが仕組みについてだから。
次に行くタイミング。存在を表現すると
いうと大袈裟だけれど、存在は何なのか。
私って何。他者を通して映る私もいるし、
自問自答して出て来る私もいる。私がどう
いう経緯で出て来たかではなく、私その
ものは何か。生存の安心、存在価値、有る
という感覚は、対極のエネルギーの微妙な
ずれから生じている。もし、このずれが
なければ無でも無限でも有でもない何かに
なる。ビッグバンによって宇宙は無と無限
という対極に分かれた。そのずれが有で
あり私である。有に方向性はあるのだろう
か。対極が引き合う。エネルギーが動く。
私が生まれる。コントロールの外。何かを
したいという閃きは確かにコントロール
できない。純粋に生きるということは、
閃きに沿うということかもしれない。
閃きはどのくらいの頻度で湧いているの
だろうか。とめどなくだろうか。その
チャンスを逃しているのかもしれない。
閃き、直感は常に降り注がれていて、
それに耳を塞いでいる状態が、迷いなの
かもしれない。今年はその閃きを一つ
でも多く受け取る一年にしたい。