再び気になることがある。愛は冷めることが
あるのだろうか。あの人と一緒にいるために
自分と真剣に向き合ってきた。そしてこれを
やってみようという所に近付いて来て、ふと
気付いた。あんなに欲していた心がどこかへ
行ってしまった。心が離れてしまった。これは
独りよがりになっているということだろうか。
憧れてずっと手に入れたかったものがいざ
目の前に現れて、いつでも手に入るとなると
本当に欲しかったのか分からなくなる。何て
勝手なのだろうとは思うが、本心に嘘は付け
ない。この現象は何なのか。手に入ったら、
今度は失う恐れが出て来てしまうのではないか。
不自由になってしまう。いつも見張っていな
ければならない。それなら遠くから欲しがって
いる方が目標があって頑張れるし、好きな
タイミングで好きなだけ愛することができる。
手に入ったら自分がそれに見合わないのでは
ないかという自己嫌悪に苛まれるかもしれない。
確かに良いことがあるだろうか。手に入って
から待っているのは今以下の現実であるような
気がする。じゃあ一生手に入らなくていいのか。
無理に手にしようとする必要はない。そもそも
手に入れるとは物に対して使う言葉。愛では
なかったのか。どうしてこんなにも愛が分から
ないのだろう。諦めたくなる。つまり信じたく
ない。愛は素晴らしいものだと思いたい。愛は
苦しいものだと思いたくない。過去のトラウマ
を癒す段階で苦しみが伴うように、愛にも必ず
苦しみが伴うのであれば、何のために愛を
求めているのだろう。苦しい思いをすることが
分かっているのになぜ一緒にいようとするのか。
愛する人と向き合うということは自分自身と
向き合うということだ。自分に未解決の
トラウマがあることを知るのが怖いのだろう。
だったら自分に聞いてみればいい。あなたが
まだ向き合っていない恐怖がありますかと。
ありそうな気がする。ありそうな気がするから
恐怖なのだ。恐怖はないものに対して感じる。
起こったことに対してそれが期待したものでは
なかったら落胆する。信じられなくなる。私の
愛はその程度のものだったのか。何て都合が
いいんだろう。その起こったことがやっぱり
期待通りに進んだら嬉しくなって信じようと
思う。何だそれは。愛ではない。認めたくない。
愛してなどいなかったと。じゃあ何なの。今は
涙が止まらなくなって、胸がずっと開きっ放し
というか、心臓を掴まれている感覚がする。
数日前にも同じ現象が起きた。今浮かんでいる
感情とは別の、歓喜のようなもの。やっぱり
私はあなたを愛している。訳がわからない。
これがエゴなのか愛なのか。状況が不利でも
確信できるのが愛ではないの?条件次第で
曇ってしまう愛は愛じゃない。エゴとか
愛とか疲れるよ。どうしようもない。考えて
どうこうなるものでもない。こうやって愛が
何なのか探し求めるという現象が愛という
のではないの?愛は手に入れるものじゃない。
見つけるものでもない。見つける行為そのもの。
見えなくなったら見つけようとする。条件に
よって気持ちがコロコロと変わる。そういう
こともあるだろう、人間だから。でもそういう
自分に気付いて、愛は何であるかということを
深めていく。目標達成は快楽であり、過程その
ものが愛、目的。目標が達成しそうになったら、
また別の目標を設定する。途中で目標を変更
する。それでも良いのだ。
苦しみと愛の違いは何だろうか。おそらく、
苦しみは目標達成が目的だと勘違いしている
場合に生じるのだろう。在り方について考えて
いた。社会や他者や親から生存の安心や愛情を
得るために、利益になることをするという思考
回路。一方で、癒す人で在りたい、そのために
何らかの技術を身につけようという思い。前者
は生存の安心や愛情を得るという目標を目的と
すれば苦しみ、利益になることをする過程その
ものを目的とすれば愛だ。後者は癒すという
過程そのものを目的とすれば愛。もし技術を
高めるという目標を目的とすれば苦しみと
なる。前者の場合、無意識でそうなっている
ことが多いだろう。そのような目標設定をした
記憶すらないかもしれない。であればその目標
は変更した方が良いのかもしれない。そもそも
もう必要ない。ありがとうと言ってお別れ
すればいい。断捨離。人の目が気になって
仕方がない時がある。調子の悪い時は特に。
おそらく生存の安心や愛情を目的としている
ためだ。誰でも辛い時、人に頼りたくなる時は
ある。愛情を得ようとしてももちろん良いが、
目的としてしまったら本末転倒、苦しみが
待っている。人間関係のトラブルに悩んだら、
安心や承認を得ることを目的としないこと。
相手以外の社会や他者にとって利益になること
をする過程を目的とすること。もしくは在り
たい自分像を演じ続けること。演じるとは嘘を
つくことだと思っていたが、そうではない。
例えば歌手で在りたいと思って、不調があっても
そうあろうと演じることは嘘をつくことだろう
か。ただし歌唱の技術向上を目的とせず、歌を
届ける過程を目的とすること。つまり在りたい
自分像を証明する笑顔やコミュニケーション
能力の高さなどを目的とせず、こう在りたい
という思いそのものを目的とすること。
67862通目の宛名のないメール
お返事が届いています
名前のない小瓶
愛とは与える人に与えられる。
人生とは与えたものが返ってくる
こだまでしょうか?JR
これから良い徳積みをしていかないといけない。
一日一善
ななしさん
一方的な愛は
無いと思う。
世のため人の為に働く事
過ちを正す事
善良な市民でも、車に轢かれたりする。事故に合う事がある。
愛に埋もれていたいけど、これだけ人口の増えたこの国に、
大切な人と、過ごせる
時間は限られている。
子供達が、真っ直ぐに、成長するとは限らない。
愛に埋もれていたいけど。
ななしさん
愛とは私からしたら苦しみでしかない。
手に入ればそれからまた悩みは増える。
私の場合、手に入れるまえから悩みはあった。それが尾を引いた。
許せなかった。私は器が小さいのだ。
ちょっとしたことすら許せない。その許せないことに我慢を重ねて見て見ぬ振りして気づかない振りをして過ごしてきていた数ヶ月間。もう限界であった。笑って何も知らないかのように普通に笑い合うことに疲れた。
かといって私は本人に確認なんかもしたくなかった。確認しようとしたって無駄だからだ。そんなものは物的証拠が無ければ駄目なのだから聞いたところで真実は闇に葬られるだけである。
向き合う体力、気力ともに無かった。
もう何もかもがどうでもよくなった。
今までずっと気になって仕方なかったことが手放してみたら気にもとめなくてよくなったのだから。精神的にとても楽になった。やはり人に深入りするだけ気になってしまって疲れてしまう。そして関わらなくなってしまえば、それはそれでかなり助かる。今までずっと内に溜まっていてどうしようもなかった人のくだらない感情がスーッと色褪せて消えていくだけ。人はどんな状況に立たされようが環境の変化にも追いつくし適応能力もあるから何とかやり過ごせるのだ。だから生きていく過程の中で寂しいことがあってもどうにかなると思っている。
愛とは、愛を信じたい人のみが愛を感じることが出来るのではないかと私は思う。
愛とは見えないものかと思う。
ただ優しくするだとか、誰かのために、というものだけが愛ではない。
私は愛って一般的に付き合う男女の間に、愛と呼べるだけの気持ちなんか中々存在していないんじゃないかとさえ感じる。
うわべだけ。好きと言い合うが、だから何なのか?愛なんか幻想であり、まやかしである。愛と言う人は恵まれて汚い世界を見ていないから口では言えるだけだ。本当のことを知ったら簡単に愛なんて言葉を易々と出せるはず無い。だから偽善者が大っ嫌いだし、分かったかのような口ぶりで語る人が嫌いだ。苦労すればいい。信じて裏切られればいい。それで初めて愛を知る。
愛を知っている人は、短期間一緒にいただけの人に愛なんて言葉を出さない。
何も考えていないような薄っぺらな人が愛を語る。うわべだけ、口だけ、ベラベラと。
嘘、ばれていても気にしていない。気付かれていないとさえ思っているかもしれない。もう今となってはどうでもいいこと。くだらなかった。馬鹿げたゲームをエンド。
誰でもいい、結局は誰でもいいってこと。
本気になっている振りだけだったってこと。
愛、とは綺麗事で言葉のカラクリ。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。