お手紙を見てくださり、ありがとうございます。僕はあまり文章力はありませんし、長文で申し訳ありませんが、お返事いただけるととても嬉しいです。僕の想いが、誰かに伝わりますように。。。
僕は関西にある大学2回生で、将来学校の教師になるため、教育学の勉強をしています。そこで、「学校教育の課題」というレポートがあり、僕は不登校について調べました。
とある動画再生アプリで、僕はある不登校の人が投稿した動画を見つけました。そこには不登校の人の悩みがつらつらと書かれていました。
その動画アプリでは誰でも自由にコメントがつけられます。僕はそのコメントをみて驚愕しました。
「投稿してないで学校行きな」
「私だって無理して学校に行ってるんだよ?」
「学校に行かずに親に心配かけるなんて親不孝者」
「学校程度行けないようじゃ社会で通用しないよ?w」
「社会のゴミ」
といった、辛辣なコメントが並んでいました。
確かに、コメントをされた方々の気持ちも分かります。しかし、何がなんでも酷すぎると思ってしまいました。
僕は今回のレポートで、学校教育には様々な課題があることを知りました。そもそも、学校という制度があるなら、その制度に合わない人がいるのは当然じゃないでしょうか。気の合わない人と同じクラスになったり、理不尽な教師がいたり、いじめられたりすることもあり得ます。学校という制度から身を離れざるを得ない人はいて当たり前だと思います。
学校に行くことは偉いことなのでしょうか?
学校でしか得られないものってあるのでしょうか?
人々はその人の事情などまったく考慮せずに不登校な生徒に【脱落者】の烙印を押します。それって、正しいこと、なのでしょうか。
確かに世間では学歴を重視する傾向がありますし、学校に行くのが当然と思うのも無理はないと思います。けれども、学校に行けない(行かない)人を排除して良いのでしょうか。
学校が、学校に行かない人を排除するよう「教育」したのでしょうか。
「学校に行かないようだったら、社会で通用しない」
この意見に関しては分からなくもないです。確かに、多くの人にとって学校よりも社会の方がしんどいと感じるでしょう。
けれども!
僕はこの意見に対してこう思います。
あなたは社会の何を知っているのでしょうか?
バカみたいに広いこの世界の、何を知っているのでしょうか。
少なくとも私のすぐ近くには、温かく見守る場所がありました。不登校で悩んでいる彼らを、温かく抱きかかえてくれる場所が。
僕からすると、この意見は、日本の福祉・教育・医療を馬鹿にされた気にしかなりません。とても、歯が欠けるほど、悔しいです。
また、不登校の彼らを「親不孝者」呼ばわりするコメントに関しては、憤りを感じました。
勝手に自分の価値観を押し出して、親でもないあなたが、勝手に烙印を押しやがって。
学校に無理して行っていじめられたりして、自傷行為を行ったり、命を落とす子どもたちがいます。戸塚ヨットスクール事件のように、監禁されて暴力を振るわれ、命を落とし、行方不明になるという事例も過去にはありました。
果たしてそれは、本当に【学校へ行く意味】があったのでしょうか。命を落としてまで学ぶ意義があったのでしょうか。
学校でしか学べないことなどそんなにありません。教科の勉強は家でもできる。友達はSNSを使えばいつでも連絡が取れる。努力の大切さとかも、その人の趣味とかで学ぶことができる。協調性だって、学校でしか学べないわけじゃない。
逆に、学校のせいで、「学校に行かない人を排除する」ことを人は学んでしまいました。
何が、正しいのでしょうか。
少なくとも、不登校を否定する人が多いのは事実です。そうなら僕は教師として働く自信がもう無いです。
将来、教師として働いていく時、不登校の生徒が出たら、僕はその生徒を守ってあげられるのでしょうか。不登校を批判する生徒にどう接すれば良いのでしょうか。
「逃げる」生き方は悪いことなのでしょうか。
もしよろしければ、誰か僕に道しるべを与えてください。
長文になり、申し訳ありませんでしたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。
名前のない小瓶
68001通目の宛名のないメール
小瓶主の返事あり
お返事が届いています
にぎり
元不登校児です。
私は今も過去の不登校の自分を受け入れられずに、自分は親不孝者、学校すら行けないなんてゴミだと思っています。
でも私は、あなたのように不登校児に寄り添ってくれる人がいると知れただけで救われました。
確かに人を傷つける発言は良くないけど、考え方は人それぞれだとも言えます。だから、不登校を批判してる人たちを批判せずに、困ってる人(ここでいうなら不登校児)に寄り添ってあげたらいいんじゃないでしょうか?
メロンソーダ
ある方は言いました。
「学校は命をかけて行くような所ではない」と。
ななしさん
私は、あなたのその意見に救われました。ありがとうごさいます。ごめんなさい、それしかいえなくて。感動しすぎちゃって、、
その意見を、いろんな人に発信してください。不登校で悩んでる子に、伝えてください。私もそのひとりです。救われました。
名前のない小瓶
立派な方ですね。私もあなたのような方が先生になって欲しいと望みます。
仰る通り、不登校であっても社会で活躍されている方たくさんおられますよね。
私は世の中の理不尽と戦い倒れて休職中の身です。
不登校だったり、悩みを抱えている方にあなたは寄り添えると思います。
彼らの話を受け入れ聴くだけでも救われるのではないでしょうか。
私は縁あって、学校で働いていましたが…、担任の先生ではダメだったのでしょう。私に毒薬の作り方を教えて欲しいと尋ねてきた子がいました。とても苦しかったのでしょう。
当時は何の知識もなく、唯只管私に話しかけてくる子の話を聴いていました。
後にそれが正解だったと学ぶ事になります。
未だに10年以上経ってもどうしているかなぁと思う事があります。
目の前の人の存在を肯定し、真摯に向き合い、その人の力を信じる事が大切なのではないかと私は思います。
選択肢はその人の自由ですよね。不登校も尊重されると思います。自分の人生誰かに押し付けられるものでなく、自分で悩み切り開いていくものであって欲しいと私は思います。理不尽は誰にでも起きますが、誰もが生きやすい世の中を願います。
ななしさん
「逃げる」ことは、駄目な事ではありません。
社会の大人から見れば、
「現実から逃げる」という考えですが、私から見れば「逃げる」ことは「前向きの撤退」なので、絶対に駄目な事ではありません。むしろ、私はいいことだとおもっています。
名前のない小瓶
死ぬくらいなら逃げた方がいいけど
死なないなら踏みとどまるのがいいと思う
その判断が難しいのが悩みどころ
ななしさん
不登校の中学生です。
あなたみたいな人が、先生を目指しているだけで、不登校じゃなかった人が、不登校を取り巻く環境について疑問を持ってくれただけで、私はすごく嬉しかったです。
私はいじめられて学校に行けなくなったけど、外に出て人と話すことが凄く好きです。不登校が社会でやっていけないかどうかはきっと別問題なのでしょうね笑
私がいじめられたとき、担任は何もしてはくれませんでした。親は何度も先生に訴えかけてくれていたようですが、物を隠されても捨てられても当時の担任はあなたの管理ができていないせいだと言いました。悪口を言われているところを直接見ても見て見ぬ振りをしました。階段から落とされているところを直接見て、さらに友達が担任に説明してくれた時も、足を滑らせただけで人のせいにするなと怒りました。凄く辛かった。 自殺一歩手前で親に死ぬくらいなら行かなくていいよと泣かれいくのをやめました。あの時、先生が助けてくれたらと今も思います。
今不登校になってもうすぐ三年目になるくらいですが、不登校になってからの先生は、凄くいい先生でした。
faxで連絡をくれるので電話で怯えなくていいし、明日の予定を毎日送ってくれるので行ける!と思った日はすぐに行けます。いじめてきた子達とはクラスは別にしてもらえています。それくらいでいいんです。特別守る事も特には無くていいんじゃないかな、と思います。あくまでも私の話ですが私は学校にたまに行けた時にあからさまに優しくされると少し引いて怖く感じてしまうので…音や、気配人の感情に敏感なのでその子により対応を変えることが一番大切だと思います
だけどなにより悪くないと思ってくれている人がいるだけで、不登校児にとっては凄く嬉しいことだし居場所になると思います
FJクルーザー
(小瓶主)
1通目のお手紙を書いていただいた方へ
お手紙ありがとうございます。
担任の先生によって生徒人生までもが変わってしまうかもしれないということに関して恐れを感じるとともに、あなたの経験をもとに私の理想の教師像がなんとなく掴めたと思います。
遠足の件、教師の対応が少し不足していたように思われます。もう少し丁寧に考えてくれれば、そのようなことにならなかったかもしれない。
それだけ教師という職業は考えるべきことがいっぱいあるんだろうなぁと感じました。
不登校側からの意見はなかなか聞くことができず、とても自分の貴重な意見となりました。丁寧に書いてくださり、ありがとうございました。
あなたの周りが素敵な人で溢れますように。
ななしさん
「逃げる」ことは良いことでも悪いことでもない、と私は思います。
良い悪いを決めることではない。
主さんはどちらかと言えば「逃げる」ことに肯定的ですね。
それはそれでいいです。
動画のコメントの人々は「逃げる」ことに否定的だったみたいですね。
それもそれでいいのです。
どちらも尊重されれば、どちらの居場所も出来ます。
でも一方を肯定し一方を非難すれば、非難された側は居場所を失います。
居場所を失った人々は鬱屈し、不満を持ち、「自分の感情は間違っているらしい」と自分の思考回路や価値観に不信感を抱いてしまう。
「逃げるのを受け入れない人(社会)は冷たい」という価値観があるのはまったく構いませんが、それを「正解」として定着させようとするのは違うと私は思います。
なぜなら「あの時、逃げれば良かった」と思う人がいるなら、「あの時、逃げなくて良かった」と思っている人もいるはずだからです。
逃げなかったから、逃げは甘えだと信じたからこそ踏ん張って今がある人の「逃げは甘えだ」という価値観を、ただ単に「冷たい」「時代遅れ」と切り捨てることは絶対に違う。
あなたが先生になって、関わる生徒に不登校が出た時は、不登校の肯定と否定、どっちの意見にも「あなたは?」と言ってあげてください。
「あの子サボってズルい!!!」と騒ぐ子には、「君もサボりたいの?何かサボりたくなるような、辛いことがあるの?」と聞いてあげてください。
逆に「逃げたい」と言う子には「先生はどうしてあげたらいい?何かして欲しいことはある?」と聞いてあげてください。
結局は、今の自分の立場に不満があるからこそ、違う立場の誰かを非難するのだと思います。
お互いに「不登校は学校行かなくて学校行事の準備もやらなくて、友人関係にも気を使わなくて楽だろうよ!」「通学出来ている人は教師に気に入られて頼れる友達もいて、自分みたいな悩みなんかないだろうよ!」と思い込んでいるから、非難が出るのです。
口汚く罵る人ほど、他人を責めたいというより、本当は自分を労って欲しいのだと私は思っています。
だから、単純に「不登校の子の立場を守ってあげられるのか?」ではなくて、どちらの立場の苦悩にも一対一で向き合ってあげて欲しいです。
不登校のAさんと通学しているBさん、比較してどうこうではなく、それぞれの心にあるモヤモヤに耳をかたむけてあげてください。同じ生徒なんですから。
そうして自分の辛さを受け止めてもらえた子は、自分とは違う立場の辛さにも目が行く余裕が出てきて、「どっちも大変なのかもしれない」て思えるかもしれない。
他人への理解とか、理解したいって思いやりは、そういう気持ちから進んでいくものなんじゃないでしょうか。
ななしさん
中学、高校で不登校になりかけ、今は某大学の教育学部に通っている学生です。
主さんのご意見にとても共感します。
私は、主さんのような方にこそ先生になってほしい、と思いました。
柔軟な考え方を持つ先生が校内にいることで救われる生徒が必ずいると思います。
もし、既存の学校の中で生徒を守れるか不安だ…と思われるのであれば、いっそのことフリースクールや、不登校の生徒を支える組織を立ち上げてみるのはどうでしょうか?
一個人の意見ではありますが、私は無理してまで合わない学校に通うことは、デメリットしかないと思います。
少なくとも、私自身はそうでした。精神疾患になり、病院に通いながら意識が朦朧としたまま勉強したって何も頭に入らないし、ストレスのせいか記憶もほぼありません。理不尽に追い詰められてついたネガティブ思考の癖や、良くない習慣の悪影響と比べたら、ほぼメリットはありませんでした。
(完全に自分の話ですみません)
学校に適性がなくても、社会ではうまくやっていける人もいるようです。
校内の人間関係より、数字で明確に表される成果主義のほうが居心地がいい人もいます。
多様性を受け入れる世の中になればいいなとは思いますが、そうでない現実がある以上、多数から不本意にもはみ出てしまった人や、悩み苦しむ人が心地よく過ごせる場が必要だと思います。
主さんは、そのような現実に目を向けて、改善に向け手を打てる人なのではないかと感じました。
nona
こんにちは、小学五年生〜中学三年生まで
不登校だった社会人です。
あなたの憤りはごもっともだと思います。
何より、当時あなたのような考えを
持つ大人に、私は出会いたかった。
不登校側に偏重した意見となること、
どうかお許し下さい。
私としては、
「逃げる生き方=不登校も
選択肢の一つとして認め、
受け入れる学校、ないし社会」
であってほしいと願います。
何かしら、当人だけの理由があって
不登校になるのです。
それを否定しない環境が、ほしい。
>「学校に行かないようだったら、社会で通用しない」
今でこそ理解できますが、
当時は言葉が頭を通り抜けていました。
社会に出ていないのですもの、
知らないものに実感などわきません。
不登校に限らず、学生の世界は
学校が社会そのものです。
今こんなに辛いのに、大人になったら
もっと辛い環境になるのか、という
絶望感だけは覚えています。
学校で学ぶことは多岐に渡ります。
人生の糧となることも沢山あります。
ですが、あの集団活動の中で
少数派を迫害するという考えが
生まれている気がする……とも思います。
他人と過ごすことで協調性を養う。
それ自体は素晴らしいことなんですが。
そこから、周りと違うものを
異質だと捉える、変なのと声に出す。
周りの子供たちも協調する。
そんな負の連鎖が、消えないのです。
>逆に、学校のせいで、「学校に行かない人を排除する」ことを人は学んでしまいました。
まさに、このお話です。
少数派を悪として、排除する。
その考え方を植え付けている原因に
学校生活は少なからずとも
関わっていると思います。
あなたが教師になられて、
いつか不登校の生徒と出会い、
その生徒を守りたいと願って下さるなら。
どうか不登校生徒のいない
教室の方を気にかけて下さい。
何かしら、不登校のきっかけを
大人の目線から探して頂きたいのです。
不登校生徒とお話する機会があれば、
学校の話をする流れで
こういうことが原因で学校へ来たくない?
とたずねることも出来ます。
不登校の理由を口にしたくない子でも、
YES/NOなら答えられる場合もあります。
そしてできれば、生徒が自発的に
登校したくなるまで、登校は
急かさないで欲しいのです。
登校のお誘いがプレッシャーになって、
期待に応えられない自分に
劣等感を覚えていました。
遠足だけでもおいで、と仰って頂きましたが
いざ遠足だけ登校すると、
クラスメイトから直球の暴言(勉強はしに来ないのに遊びにだけは来るんだ、など)を浴びせられたりもしたので……。
ちなみに、長年心にしまっていましたが
私が不登校になった直接のきっかけを
作ったのは、当時担任の先生が
クラスメイトに向けて放った
私に関するとある一言でした。
未だ忘れていないし、これからも忘れない。
どうか、私のような不登校生徒を
生み出さない、優しい教師に
なってくださいますように。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。