私の友人はひとりは白い女の細腕です。その腕はとても力が強く、私の右腕を掴んで離しません。時々痛いです。
ひとりは白い布です。とても長くて、ポリエステルのような手触りの丈夫で長い布です。時々体に巻きついてきます。
ひとりは鎖のついた足枷です。何処に繋がっているかはわからないし鎖の長さもわからないけれど、私を確かに躓かせます。
ひとりは沢山の指先です。綺麗な指で私を撫でたりつついたり、適度に構ってくれます。
ひとりは多脚です。とても活発で、体が強いです。少し羨ましく感じます。
私は沢山の眼球です。時折黒い涙を流します。
実際にそう見えているというより、そう感じとっているのです。
私にとってはそれは繋がったものに見えますが、皆には支離滅裂のように見えているようです。
他人と自分の世界の歪みは思っている以上に大きいです。不便だと思ったことはありません。もっと大きな不自由がありますので。
オチですか、ありません。ただ私は世界の見え方をボヤきにきただけですので。
ななしさん
あなたとは見ているものや見え方が全く異なりますが、ここに私の話を添えさせてください。
まず私にのなかには私がたくさんいます。
姿形性別年齢役割全て異なるものですが、それら全ては紛れもない私であって、ゆるぎないもので、確実に存在しています。人の形をとっているかどうかも怪しく、時に形のないものでもありますが、私には、みえる、という感覚で存在を認識することが可能です。
でも私は俗に多重人格というものではありません。幸か不幸か、他の理由で精神科に通っていてすら、医師に「あなたちゃんと普通の人」とお墨付きをもらえます。
しかしそうはいってもこの感覚は一般に普通ではありません。日常会話で、「私には私がたくさんいてね、私がこの行動するためには私はこの私とこの私と会話をしなくちゃならなくて……、」なんて本当のことを言い出したら途端に悪い意味での本当のヤバイ人になります。それを私は知っています。知っているのであえてやりません。
これこそ、私にとっての他と自分とを隔てる世界の歪みの最たるものの一つです。
同時に、私にはこれこそ現実で事実です。私には見えているというこの世界観があってこそ、私は私として機能できている。だから自分のみえかたには、誇りさえ持っている。
人はどうやらそういう類のものではないらしいけど、この、世界との隔たり感、周囲と感覚の差異や強い違和感、生命活動のために自分を社会のなかで機能させるときに否応なく浴びる歪みを感じていてこそ、私の世界の見え方であると言えます。
生きている実感とも言いかえられます。
そういうものなのです。
似ているような、似てないような、だけど目に留まった小瓶だったので、私の話を添えさせて頂きました。