私は記憶力が良く、仕事覚えるのも人一倍早いです。(要領は悪いけれど)
向き不向きも関係なく、どこで何をしても覚えるのが早いです。
でも、その記憶力を使うために、実は地道な努力もかなりしています。
聞くだけなら、きっと誰もが羨む一種の才能でもあると自負しています。
だけど、それを仮に才能と呼ぶのであれば
私はその才能とやらにとても苦しめられています
子供の頃から、この子は出来る子、大丈夫。と放置されてきました。
グレてやんちゃで、好き勝手している子はとても愛されているように思えました。
元が出来ると、できない時は怒られるのに出来ても褒められません。
だから私はグレました
タバコやお酒や夜遊びやセックス、手に入れられる全てを手に入れました。
成績や自分の核や幸せや安定と引き換えに。
この堕落した私の生活は、不幸せに見えますか
グレても何も変わらなかった
呆れて見放され、もったいないと責められ、どうしようもないと言われ続けた
高校で元の生活に戻り、愛を探し求め、見つからず、気力をなくした私は
そのまま社会人になった。
仕事ができる人間は、誰もが羨ましく思い、まるで努力もせず出来るかのように僻みをこぼす。
理不尽に妬まれ、ろくに教えられもしない仕事をこなすのに精一杯で、全てを1人で背負うことが当たり前になって生きた二十数年間はそう簡単に覆せるものでもなかった。
助けて欲しい時に助けて欲しいと言える方が、才能があることよりも羨ましい。
助けて欲しい時に助けて欲しいとも言えない。出来るでしょ?と決めつけられる苦しみさえ理解されない。
物分かりがいいと言われ、つまらなくて可愛くない子供だと蔑まれ、できるできないの概念を押し付けられて
助けてとすら声に出さなくなった私はただひたすら心を潰し続けるしかない。
才能は羨ましく思われるものだ。
わかっている。事務系でも体力使う仕事でも何でもこなせて、社会から必要とされそうなこの頭も。
出来ない人からしたらきっと喉から手が出るほど羨ましいだろう。
だけど私からすれば、出来ないから助けてと言えばはいはいわかったよ、とだるそうにでも言ってもらえる方が羨ましい。
出来てしまう苦しみを分かってくれる人は一握りいれば良い方だ。
出来ないからこそ言い訳ができる。
言い訳が見当たらない、ただ出来ない、でもやろうと思えばやらなきゃいけない状況に当たれば出来てしまう
作りや法則で何となくの流れが分かってしまう
昔はそりゃあ、得意げに自慢できるような能力だったが今となっては鬱陶しい。
優秀も拙劣もどちらも取れないが
平凡が1番良い。
持ちつ持たれつの関係がいまだによく分からない私はずっとあの時のまま変われない。