私は物心ついたころから自分には価値がないのだと漠然と感じていた。
人生は苦行であると言う。
それならばなぜこの世に生を受けたのか。
私は自分の人生が不幸に満ちているとは思っていない。
私の周りには素敵な人たちが多くいる。
私の漠然とした希死念慮は幸も不幸も関係していないように思える。
子孫繁栄のために生きる?
人生は苦行なのに?
なぜ人生は苦行なのに子孫繁栄を願うのか。
子孫の苦行を願っていると言うのだろうか。
愛されるために生まれてきたと言うのは詭弁だ。
今日も生きていた。
絶望、希望を失う様子、希望のない様子。
少し違うかなと思う。
希望を忘れてしまった。
絶望しているわけではない。
思い出せない。
私の希死念慮はきっと何度でもまた顔を出すだろう。
その度に私は自分を忘れていくのかもしれない。
心は叫びたがっているのだと思う。
でも私は叫び方を知らない。
こんなふうに落ちている自分に嫌悪感を抱く。
それなのに、自分に嫌悪感を抱く自分にすら嫌悪感を抱く。
私はいつまで苦しめばよいのだろう。
ななしさん
私もたまに、生物学的にヒトという動物はなぜ生きているのかとか考えます。自殺念慮まではいかないけど、生きている意味を見出しにくい。
動物はケガや病気をしたり、生まれながらに虚弱だったりしたらすぐに死ぬリスクが高いけど、ヒトには医者が居て、治してくれる。虚弱でも病気でも、生きて、遺伝子を遺していける。言い方は悪いけど、自然界に逆らった「弱い人間」も出来るのかも…とか。いわゆる自然淘汰もされないままに。もし私が草食動物だったら、生きる意志の弱いやつ、すぐ死んでたかもだし。
でも、一方で「質量保存の法則」ってのもあったりする。何も無いところから人間ができたんじゃなくて、ビックバンが起きた時には既にいろんな遺伝子が含まれてて、長い時間をかけて環境因子とかにも左右されつつ、今の地球の姿になったんだとしたら、私のこの脳みそはビックバンの時に既に決まってたんじゃないかなって。地球のマグマの上に陸と水があることと、私に遺伝子が与えられ(概念すぎる言い方でごめんなさい。)ていることは同じ確率で同じ現象。っていう究極の俯瞰な考え方をしたら、私は結構気が楽になる。生きてていいんだ。地球が決めたことなんだ。
やっぱり生きる意味は意思だね、って話です。