色んな小瓶を読んでいて、自分の中に湧き上がる。
行く宛てもない、その気持ちを整理するために、雑記を綴ろうと思う。
孤独そのものって、そんなに悲しい事なんだろうか。
確かに、会いたい人と会えないのは寂しい。
理解できず、意思疎通が出来ない事は悔しい。
でも、孤独って事は、人それぞれが、代えようのない自分の人生を歩いている、という事でもあるんじゃないのだろうか。
似ている事や、近しい事はあり、だから比較する事も出来る。だから共感する事もある。
そして、真の意味で、根底が他人と干渉し、重なり合う事もない。
人それぞれ違う。
だから、良くも悪くも、真に「正しく条件の釣り合った比較」は出来ないし、人の心の全てを理解できる訳でもない。
同じではないのだから。
そして、自己を確立する事は、自分の足で立ち、自分の人生を歩む事、即ち自立にも繋がる。
だが、人は、生き物は、何かに頼らなければ生きてなどいない。
何かと関わった経験が、その人を支えているという事は、その人が立っている事と同時に、過去に生かされているという側面もあるのではないか。
だからこそ、孤独であっても一人ではないのだと思っている。
すぐそこにある。
そう考え続けてきて、何が寂しいのか、悲しいのか、もう俺には解らない。
もう、共感できない事へ、物悲しく憂う気持ちが、孤独の悲しみだというのなら、俺自身のただの勘違いにしかならない。
孤独という言葉は便利だ。
まるで、その言葉を使うだけで、自分の見えない部分までもが言い表せられたような感覚に陥る。
俺はただ、孤独が悲しい訳ではなかった。
孤独な自分を哀れだと勘違いしていただけだった。
共感したい、理解したい、心許し合いたい、そう思う気持ちを諦めているだけだった。
その思いを、孤独という言葉へ隠すのが上手くなっただけだった。
一人一人は孤独だ。
だが、だからこそ、通じ合った時、分かり合えた時、嬉しく思うものではないか。
完全に理解できるという訳でもなく。
完全に理解できないという訳でもなく。
どこにもないんだ、完璧な孤独なんてものは。
…これは俺自身が、自分に対して思う考えだ。
だから、他の人がどうとか、言うつもりも、思うつもりもない。
だが、今の俺はもう、たとえ誰かの孤独に関わる部分へと共感する事はできても、孤独そのものに共感する事は出来ない。
自分の気持ちをそう判断して、そう納得したからだ。
そういう意味と共に、今を生きているからだ。