幼少期から、あなたもう○歳なんだからこれが出来てて当たり前なんじゃないの?できるよね?と毎年のように言われてきました。
当たり前ができていないらしい自分を、自分が思い悩む以上の圧力で痛感させられ、その苦痛に耐え忍ぶ為に立ち止まっているうちに、今が一番楽しい時期なのに何してるの?何かしたいことないの?もっと楽しまなきゃ!みたいに言われるようになりました。
そう言われても、なんなら自分は、最初に“もう○歳なんだから”と言われた瞬間から、時を止めているのです。
肉体の時間は無情に、強制的に過ぎますが、精神はそこに強く囚われ、皮肉にもその時間の経過とともに、もはや自分の意思だけでどうにかできるものではなくなっていったのです。
いつからか、その年齢に求めらていることを今からでも成さない限り、現在の年齢を謳歌できるような精神状態ではない、と思うようになっていました。
それゆえ、もうその年齢じゃなくなったから、その年齢の時なら得られただろう周囲の助けは得られないなか、自分でどうにかしなければならないと思いました。時間は絶対に止まらないので、かつての立ち止まりを解消しようとしている間に自動的に歳を取り、自動的にその年齢でのかくあるべき問題が積み重なってくるなかで、でも、これまでの年齢においてできなかったことを、私は今、同級生たちとは周回遅れで解消していかなければならないと思います。いずれかの形で終止符を打たなければ、自分は、今を生きられないのです。
謳歌なんて夢のまた夢です。
10代、20代、人生で一番楽しい時期、なんて、それ以前の成すべきことを成せなかった年齢のときから停滞している自分にはそれどころではなくて、だけど周囲の人は、自分の感覚の自分の時間の観念に、自分の年齢の観念に則って思うがままに、時に無責任に発言するだけでこちらの事情を慮ってはくれません。
(自分自身、慮って欲しいかといえばそうでもないようだし)
どこかの年齢を境に躓き、停滞する、と言う経験をもたずに来れた、または再始動できた人たちの多くは、順当に年齢を重ねたそれぞれの時期の一般的な体験を多くの人と分かちながら、共感しながら、それを当たり前のこととしてなんの疑いもなく、生きています。
人生の中で一番楽しいはずの時期に、それを謳歌できない、そのようにいられない色んな事情や状態があることを露ほども知らないので、忘れているので、あるいは想像や理解はできるのに実際に目の前の人がそうだとは案外思い至らなかったりして、気軽にこんなことを言います。
「○○歳(俗に言ういい年)のくせにこんなこともできないの?」
「その歳でそんなことも知らないの?」
「もう○○歳なんだから、こうあるべきだよね」
人生の中で一番楽しい時期という概念の他にも、各年代におけるかくあるべきだ。という考え方は、社会に深く浸透し、時に残酷なほど根深く個々人にも根付いていて、誰もがときに窮屈な考え方だと思い、誰もがそれでも考えずにはいられず、戦わずにはいられずにきたのだと思います。
誰もが人生のうちで一度は年齢の概念に追われているような、プレッシャーを感じる経験をしているのだと想像します。
人生はいつからだってスタートできるという考え方も、世界通年ではあります。
だけどまだまだ、人々は誰もが「年齢」における「残り時間」や「かくあるべきだ」という固定観念に囚われすぎていやしないかと日々生きていて、生活をしていて、痛感します。
なぜこんなことを思うのか、考えてみました。
単純に、それが自分にはなにより辛いことだからです。
人の苦悩の質やその重さ、困難さなんて、千差万別、比較できるものではありません。真に同じ感覚で、共有できるものでもありません。
みんな同じように辛いのです。それは分かります。だけど辛さの在り方も人それぞれなのでは。なぜみんな同じだと一概に括ってしまっているの?
みんな同じように辛いという言葉を頭の中に持っているのと同時に、自分は自分の苦痛について、年齢このことに限らずもっと複合的で、根深く、この世にこれほど困難で苦しい思いをしている人は他にいないほどだと確信してもいるのです。
それって、本質的には、実は一人一人がそうであったりしませんか。
年齢におけるかくあるべき、辛いことはみんなそれぞれにあってみんな同じように辛いという概念、それらの概念や考え方を自然と取り入れているのに、あるいはそのこと自体に気づかないで発される心ない、悪気ない言葉。
現代、今このときだけに限らず、こんな私の悩みなんて、鬱屈なんて、長い人類の中で何千何万何億の人が感じていただろうに、なぜ今の今まで脈々と続いてきているのだろう。と、ときどき不思議に思います。
もし本当に悩んでいる人たちが、私と同じように悩んでいるというのなら、なぜ失くなったり、概念が変わったりしないんだろう。
なんだかとっ散らかっているし、疲れたので、ここで終わります。
名前のない小瓶
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ななしさん
同質の呪縛は無数に存在していても、個々人がそれぞれの時期に異なった回数や頻度でかけられていて、人によって似て非なる状況が刻々と再生産され続け…。
気づかないうちにかけられた呪いは見抜くことも困難で、人はそれと意識しないまま不安だけは感じ、それを解消しようと他の人を呪うが、その加害性は可視化されない。
稀に気がついた人間が、自分の心を縛るあまりにもつれ、もはや解きようがないように見える黒々とした鎖を感じて立ち尽くしている間にも、他の人々は呪詛を吐き続けてやまない。
…というようなことは、ずっと感じていました。
そして、「一番楽しい時期」なんていうのも、呪いの変種に違いないと思います。
そうであってほしい人が、そう言っているだけ。
そこをとっくに通り過ぎて、その時の苦痛は忘れて、今よりは良かったはずと修正された記憶で振り返ってるような人たちが。
それは、「○○なら、××できて当然」なんて決めつけることで自分の隠された不安から逃れようと他者を圧迫する人たちと、多くは重なると思います。
これをされた側が苦しむのは、見かけがどんなに取り繕われていたとしても、それが不当な支配であり、感情的な搾取だからです。
これをする側は、自分の抱えた不安を見ないようにするために、自分以外の人間をねじ曲げることを躊躇なくやってのけます。
彼らにとっては、他者それぞれの事情や感情や個性などは、存在しないも同じなのです。
ななしさん
(小瓶主)
人の主張も、私を思ってしてくれているんだろうアドバイスも「そうか。あなたはそう思うんだね」というひとつの見方としてしか受け取れなかった私には、素直に飲み込めない「かくあるべき」という存在が心底恐ろしく感じられていたことを思い出していました。
お返事を下さったみなさんの言葉がとても分かりやすくて、すうっと身体に浸透してくるようで、すごく勉強になりました。
この世に同じように悩む人がたくさんいるなかで、同じように悩んでいた人たちが、それぞれの自分の経験から『かくあるべき』『あるべき形』みたいなものの元を作り出していったのかもしれない、と今は考えています。
世の中に数ある『かくあるべき』の正体が、元は先人たちそれぞれのこの悩みからの脱出法だったのかもしれない。
そう思えば、それはそれとして私には私の道があるんだ。と思うことに罪悪感や抵抗を持つこともいずれなくなるのではないかと、小さな希望が見えた気がします。
『かくあるべき』の概念は、年齢という縛りを受けて苦しむ人々と長い歴史のなかで何故か失われていないのではなく、無くならないでいるのではなく、同じ悩みを持つ人がたくさんいたからこその、先を行った誰かの成功法で、私がそこまで考えを深められていなかっただけなんだなあと思えるようになりました。
この考え方で良いか悪いかは分からないですし、この閃きだけでいきなり全てが解決するわけでもないでしょうけど、何より心が軽くなったのが事実なのでそれがとても嬉しいです。
小瓶を流してみてよかったと心底思いました。なんだか上手く話を纏められなくてすみません。なんとか感謝していることだけでも伝えられていたらなぁと思っています。
お返事を下さった御三方、ありがとうございました!
キングテレサ
人の人生は色々な事がありますから、辛い人生も明るい人生もどこかで「変化」があります、どう生きるかで人生の意味は大きく変わりますよね。
名前のない小瓶
年齢にしばられて、こうあるべきという姿を押し付けられるのは辛いですよね。
みんな悩んでいるはずなのになぜ、同じような悩みが無くならないんだろうと苦しむ気持ちはよく分かります。
そのなぜ失くなったり概念が変わったりしないかですが、それは「みんな」が「ひとりひとり違う人間の集まり」だからです。
悩みは同じだとしても、悩みに至る理由がそれぞれ異なるので同じようなをことを言っているのにぶつかってしまうんです。
「かくあるべき」という考えは、自分はこうしたらうまくいった、うまくいっていたはずだという思いに由来しています。
誰かが言う「かくあるべき」をあなたは受け入れる必要はありません。
言ってきた相手にとってそれは正しいことですが、あなたとその相手は違う人間なので、あなたにも当てはまるとは限らないからです。
もし「〇〇歳なんだから、こうあるべき」と言われたら、他の人に同じことを聞いてみてください。「〇〇歳ならこうあるべきかな?」と。20人くらいに聞けば数人は同意しない人がいるはずです。
世の人々は、みんなそれぞれが思ったことを適当に発言しています。思い込みで押し付けてきたりもします。その多様な意見を素直に受け入れなくてもいいんです。受け入れていたら疲れてしまいます。
あなたはあなたを生きてくださいね。
名前のない小瓶
少しズレるかもしれませんが、同じ意見です。
日本は、アジア圏がそうなのか、年齢に、数字にこだわりすぎですよね。
何歳なんだからこの状態が当たり前、は現代的な考え方ではないと思います。
古く、何事においても選択肢がない時代であるならともかく、
現代では何事においても選択肢が多く、かつ自分で増やすことすらできます。
平均寿命が高く、医療技術も日進月歩であるにも関わらず、
年齢的なタイムリミット・残り時間にこだわっているのはおかしいと思います。
そうですね、
おそらく、多くの人が同じ意見ではないのでしょうか。
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