僕は家族によくしてもらったし感謝している.少しずつ親孝行していきたいとも思っている.これは僕が生きていることへの定.しかしながら以下に述べることは別問題.僕は生きているから仕方ないんだけど,幸せになれる可能性が低い運命を,ただでさえ多くの人々が仕事をやめたいとか生きるのが辛いとか声をあげている人生を,子どもに同意なく押し付けること,いまこの考えを持っている僕にはできない.子どもが嫌いだからではなくむしろ好きだからこそ生まれた考え方.子どもの幸せを願うことはできても,子どもの人生を幸せなものにしてあげることはできない.仮にいまの自分自身が幸せな人生を歩んでいるとしてもだ.僕自身の命が苦しむぶんには問題ないが,ほかの命が苦しむのは大問題だ.僕は見てられない.あと「子ども作らないの?」というまわりの人々も,そうはいうもののその子どもの人生に責任をとってくれるわけではない.育てるのは作った人だし,そもそもその責任の全てをいつかその生まれてきた子ども自身が負うことになる.いまの理不尽な世の中でこれを望む子どもってどれだけいるのかな.夢が叶う可能性もただでさえ低く,運ゲーの要素が強い世の中なのに.ちなみに僕らの人生もこれに似たようなもので,まわりがあーしろこーしろっていうものの,仮にそれにしたがって失敗したとしても僕らの人生に何の責任もとってくれない.僕と同じような辛い思い,それこそいじめや勉強・運動の出来不出来から生まれてくるどうにもできない不幸を味わってほしくないからこそ.そもそも幸せと不幸せを知らないことそのものがもしかしたら本当に幸せなことなのかもしれない.これから働いて稼ぐお金も僕自身といまいる僕の家族,そしていま辛い思いをしながら生きている人たちのために使いたい.