「絶対やって!」
「知らなきゃ損!」
「みんな~してる!」
広告に並ぶ文字が、
気持ち悪くてたまらない。
昔からこんなに
押しつけがましかったっけ。
多様性・自主性・
個人主義を唱えながら、
やってることは
同一化と主体の放棄。
世間さまを闊歩する
主義主張は流行りもので、
そこに個人の感性はない。
人ひとりの痛み、怒り、
悲しみから出た考えは、
かならず客観的に見ると、
ゆがみ、偏っていて、
正しくない。
それこそが心の声なのに。
客観性など何の役に立つの?
他人は理解できない、
ってことが理解できない人に
悪口言われないようには
なるかも。
それくらいじゃない?
いつからか、
人の根底にあるものを
見ようとしない人が
大声で話すようになった。
もしかして、
昔からそうだったのかな。
人のことはわからない、
ってことがわかっていれば、
迂闊にものが言えるはずない。
断定的な物言いの裏には、
今まで我慢してきた
すさまじい量の苦しみが
あるかもしれない。
絶望から出た言葉、
恐怖による必死の抵抗、
生まれつきの障害…
その一瞬びくりとしてしまうような
聞いていて痛くなる声の裏に
何があるのだろう。
せめて、
決めつけることだけはしたくない。
わたしの苦しみは
「わかってもらえない」こと
だと思ってたんだけど、
「わかると思われて
決めつけられてきた」
ことだったから。