私は凄まじい雪国の田舎に住んでいて、毒祖母に強制的に行かされた高校は、車では20分だけど、交通の便が凄まじく悪く、一日に数本しかない路線バスは、街へ行くのに全ての田舎の町村をグルグル回るので、結局高校に行き着くまでにバスで1時間半、そして電車に乗り継いで15分、そこから徒歩で15分かかりました。
私の田舎は凄まじく山の上にあり、自転車での通学は不可能でした。
吹奏楽部に入っていて、部活で遅れたり、行事の前などは終わるのが遅くなったりして、度々19時の最終バスに乗り遅れました。
そうなると、仕方なく毒父に電話して迎えに来てもらわなければならないのですが、当時は携帯などありません。毒父は毎晩仕事が終ると飲みに行って飲酒運転で帰宅する生活でしたので、家に電話してもいません。
祖父は既に寝酒に突入しているし、毒祖母は免許がなく、母はとっくに蒸発していました。なので毒父しか頼れませんでした。なのに家にいないのです。
心当たりのある飲み屋、スナックに駅の公衆電話から電話をかけ、毒父がいないか電話をかけていました。大体いないのです。
もうどうしようもありませんでした。私は、一晩中明かりのついているJRの駅まで移動し、いつも夜中までそこにいました。数時間おきに家や飲み屋に電話をかけていました。寒かったし、生理のときなどは、私は経血量が異常に多いので辛かったです。
そして深夜になって、いつも祖父が軽トラで迎えに来てくれました。
ある冬の日、演奏会の前前日というので遅くまで部活をするとわかっていたので、あらかじめ迎えに来てもらえないか毒父に許可を取っていました。そして許可を得ていました。
毒父はファッションが奇妙奇天烈で、風変わりで、口ひげを生やし、独得な髪型をしていて、絶対絶対誰にも見られたくありませんでした。こんな人の娘なんて思われたくありませんでした。
毒父は迎えに来てくれました。が、酒飲みを中断された毒父は猛烈に機嫌が悪かったのです。
私は途中で毒父に車を降ろされました。
冬山に置き去りにされました。
公衆電話もありません。
私は下山し、街へ戻り、公衆電話から友達に電話をかけました。
友達のお父さんが、私を自宅まで送り届けてくださったのです。
私はありがとうございました、と言って降りました。
毒父はその事を今も知らないのです。
否、自分の恨み言で毎日頭がいっぱいの毒父は、自分が子供を雪山に、置き去りにしたことすら、覚えていないと思います。
前述の通り、車では20分程度なのに、長時間走るバスの定期代が毎月目が飛び出るくらい高額なのですが、毒父はそれも出し渋りました。定期代をお願いする私に対して、いつも、馬鹿野郎!!と罵りました。
私は仕方なく、切れた定期券で通いましたが、バレました。
事務所に呼ばれ、叱られました。
駅員さんが、「お母さんに言うよ?」と詰め寄りました。
お母さん。とっくにいなくなったのです。
と、いえずにずっと黙っていました。
捕まったことすらも毒父には言いませんでした。
ただ、「もう定期代がないから、高校を休学します」とだけ伝えました。
毒父は渋々定期代をくれました。
なぜ毒父が定期代を出し渋ったのか、社会人になった頃判明しました。
ある日、毒父は意気揚々と、高級車を買いにディーラーへ行きました。
そこで、ローンが通らないと言われたのです。
ローンが通らない自分が悪いのに、営業マンに馬鹿にされた!!恥をかかされた!!と相当な恨みをまた一つ抱えた毒父は、現ナマの札束をその営業マンの前へ叩きつけるため、当時コツコツ現金を貯めていた、のでした。
情けないですね。
私は大学へ行ける頭を持っていたにも関わらず、強制的に就職を選ばされてしまいました。入学金でお金がないかかるからでした。
家にお金を入れない毒父の代わりに、
搾取子の私と放置子の弟で、就職して家計を支えろ、と毒祖母の御達しでした。(愛玩子の妹はフリーター、稼ぎは全て自分の小遣い)
私達は、愛されず、ただ便利に使われ…
あの家でなんのために生きてきたのでしょうか。
私は望まれて産まれて来たのではなかったそうです。私が中1で、母親がなく蒸発した時に聞かされました。毒祖母から。
全然計画性のない毒父と、家出してスナックで働いていた母親との間に私ができてしまったんや!!だから結婚させるしか無かったンや!!と、何故かニヤニヤしながら嬉しそうに私に毒祖母はその言葉を浴びせました。
あの変人で人付き合いのできない毒父が、まさかの女の人に好かれる訳ないもの。
どうせ店で営業トークしていた当時の母親に、自分がモテてると勘違いしたのでしょう。中1のわたしでも解りました。
私ができてしまったせいで、母親はあの家で不幸になって、虐められて、とうとう障害者になってしまったのです。
私が諸悪の根源なのだ、と、随分と悩みました。
こうやって、ずっと黙っていた事を、読んでくださってありがとうございます。
ななしさん
悲しいですね。
わたしもそこまでひどくはなかったですが、学校に必要な物、必要な事、親の顔色を見て相談しなければいけませんでした。
自分が欲しいでなく、必要な物なのに、必要な事なのに、怒られたりして。
小学校の卒業文集だかアルバムだかに載せる保護者からの言葉は両親ともに断られ、仕方なく泣きながら自分で書きました。
それはよくできていたようでいろんなところで評判が良く、担任からも誉められたので、いたたまれない思いもあって自分が書いた事を話したら、その担任に、嘘をつくな。と頭に本気のげんこつをされました。
わたしはそれでも自分の家をそこまでひどい家とは思っていませんでした。
今の子供達は幸せです。
うちらがそういう理不尽を反面教師としているから。
何も言わないうちからあれはだいじょうぶか、これもだいじょうぶか気にしてあげて、進路の情報も集めて一緒になって考えて。
こうしてみると、少しずついい時代になっていっているように思います。