「なんでそんなにキモい顔なんだよ、存在自体が不愉快だから視界に入ってくんな消えろよ」
「うっわー、お前の触れたもんとか絶対触りたくねぇ、キモいのが伝染るわ」
ぼくは容姿がこの上なく醜く歪んでいる。それこそぼく自身ですら認めるほどにだ。
ぼくの人生の中でぼく以上に醜い容姿をした人は一切の誇張なく一人も見たことがない。これからも見ることはないだろう。
冒頭に書いたような言葉を投げかけられなかったことは小学生の頃から中学時代、高校時代、社会人になってから今に至るまでと人生の場面において一度もない。
ぼくと10人が接すれば2人はいじめて7人は顔をしかめ引き攣らせたりあからさまに距離を置いて1人は庇ってくれる…といったところだ。
一応頭では理解は出来るのだ。人間は社会的動物である以上劣った遺伝子を種から排除したい本能がある。
人間という種から見れば、劣った遺伝子のシグナルである醜い容姿を持つぼくはさしずめ白血球に攻撃されるウイルスといったところなんだろう。
けれど、あからさまに仲間外れにされたり殴られ蹴られ水を頭からかけられ暴言を吐かれといったことが十年単位で、それもどんな集団に所属していようと必ずいじめられるといったことが続けば、心がズタズタに切り裂かれていくのだ。
どんなに勉強や仕事を頑張ろうとしても、度重なるいじめの記憶がフラッシュバックして何も手につかずうまくいかずの負のループ。
美容にお金をかけても、元の遺伝子が悪すぎるからどうにもならないという現実を突きつけられるのみだった。
包み隠さず言えば、ぼくという存在自体の容姿、いや運命を心から呪った。一度に限らず、幾度となく何十年も。
生まれてこなければよかった、存在自体を消してしまいたいと思った、だが実行する勇気すらもない。
被害者だけでなく加害者にもなった。いじめから庇ってくれ、人間は容姿だけじゃないよと優しい言葉をかけてくれた人にすら「お前に俺の苦しみの何が分かるんだ!!」と暴言を吐くような有様だった。
呪って呪って呪って呪い疲れて、ようやく受け入れた。
受け入れた後で、ぼくの心の中にほんのわずかに残ったものがあったことに気が付いた。まるで災厄が飛び出していった後のパンドラの箱の中にたった一つ残った希望のように。
それは両親がくれた愛情だった。
どんなにぼくが学業や仕事で失敗して迷惑をかけても「大丈夫、あなたは生まれてきてくれただけで親孝行なのよ。」と言ってくれた母。
子供の頃に小遣いを貯めてプレゼントしたマグカップを何十年も大事にしてくれ、何度も野球観戦に連れて行ってくれて、「お前がどうなろうと俺達はお前の味方だ。」と言ってくれた父。
曇った目では見えなかっただけで、ぼくの心の中には生まれた時から二人が注ぎ続けてくれた無償の愛が確かにあったのだ。
それを自覚した瞬間、年甲斐もなく声をあげて号泣した。
ぼくが不幸だったのは容姿が醜いからというより、自分にないものに執着して不平不満ばかりに目を向け、あるものにはまるで目を向けようとしなかったから。自己憐憫ばかりに浸って本当に温かく手を差し伸べてくれる人の存在を無視し拒絶したからだ。
実際、容姿の醜さは何も変わっていないのにこうして自分の中にあるものに目を向け、生き方を変えようと決意しただけでこれだけ前向きになっている。
人間が生きる期間は80年程度、独身男性に至っては60代中盤程度らしいので、ぼくに残された期間は40年もないといったところか。
でもどちらにせよ宇宙全体の歴史からすれば誤差のようなもの、生きた期間の長さよりも何をどれだけ残すかの方が重要だ。
今後の人生の目標は、いじめから庇ってくれた一人一人に謝罪し感謝の言葉を述べること、両親がくれたこの無償の愛を出来る限り多くの人に渡すことだ。
最近読んだ本に「あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、『他者に貢献するのだ』という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。」という言葉があった。
その通り、世の中には心無い暴言を吐く人がいるかもしれないが、ぼくは他者に温かい言葉をかけるようにしよう。
暴力をふるう人がいるかもしれないが、ぼくは他者に温かく手を差し伸べるようにしよう。
容姿が醜いということで差別を受けるかもしれないが、ぼくはどんな人にも無条件に心からの信頼を寄せよう。
弱っている人を馬鹿にし更に搾取しようとする人もいるかもしれないが、ぼくは真っ先に駆け付けて自分の出来る限りの助力をしよう。
受けた痛みの分だけ、他者に共感し寄り添えるようになった。いじめを受けた経験も必要なことだった。そう言えるようにしよう。
もう世の中を散々呪うだけ呪った。これ以上世の中に呪いは残さない。
そう遠くない内に迎えるであろう最期の時は、親から貰った愛情と優しさを何十倍にも増やしてこの世への置き土産にした上で、笑いながら旅立っていくつもりだ。
この小瓶を読んでくださっている貴方にも、どうか誰かからの優しさや愛情が目一杯に届きますように。
197816通目の宛名のないメール
お返事が届いています
名前のない小瓶
(小瓶主)
ぼでぃさとばさん
こちらこそ小瓶を拾ってくださって、温かいお言葉をかけて下さってありがとうございます。
儚いもの…ですか。確かにそうかもしれません。
醜形恐怖症は容姿が整った人もなりやすいそうですね。元々の自身に対する期待値が高いからそれが老いなどによって劣化していくこと、自分より若い人に負ける(と感じる)ことなどによって強いストレスを感じるのだと。
ぼくの場合は元々残念なので、老いたところでこれ以上下がりようがないとも言えるかもしれませんね。ははは…
さて、ぼでぃさとばさんが仰って下さった「魂の美しさ」。これはこれからの人生でも非常に大切にしていきたいことです。
京セラの創設者である故・稲盛和夫さんは、「人間死ぬとき、地位も、名誉も、財産も持っていけない。あの世へ持っていけるのは自分の魂だけなんです。魂が生まれたときに比べ、どれくらい美しくなったかということが、最も重要と考えるようになりました。」
「私は信仰以前の問題として、生命の不滅を信じ、死とは肉体が消えるだけで、私自身の魂は永遠だと思っています。また、その魂を磨き続けなければならないとも考えています。」とおっしゃっていました。
あそこまで経営者として大成功し、名声を得て、財産も余るほどあったであろう方がそれよりも重要視していたことだったんですね。
実際、稲盛さんは肉体的にはもういらっしゃりませんが、その輝かしい魂は未だに京セラの繁栄という形や数多く残された名言や書籍という形でこの世に残っておられますし、ぼく自身も少しその魂を受け継がせていただきました。
ぼくの両親がぼくに与えた愛情のように、人はほんのわずかでも交流を重ねれば、大なり小なり、無意識の中に「影響」という形で自分の魂の一部を相手に残していくのだとも思います。それがどんどん人伝に伝わっていく…そういう意味で魂は永遠なのでしょう。
ぼでぃさとばさんが褒めて下さった「魂の美しさ」。それをこれから事切れるまで一日も怠らず磨き続け、良い形でその魂を相手に与え続け、肉体を脱ぎ捨てるときには何の後悔もない、やりきったと笑いながら旅立てるようにしたいですね。
ぼでぃさとばさん、あなたのその温かな魂は確かにぼくの心の中に留まりました。
これからはその魂をこの先の人生で関わる多くの人に渡していき、いずれの日かあなたに直接帰ってくるように努めたいです。
ありがとうございました。
名前のない小瓶
(小瓶主)
ななしさんへ
こちらこそ本当にありがとうございます。
ぼくはもう大丈夫です。こんなに無償の愛を注ぎ続けてくれた両親に恵まれ、自分もいじめられるリスクを背負ってまで庇ってくれた優しい人に恵まれ、こうしてななしさんにも温かい言葉をかけていただきました。
これ以上の優しさや愛情を求めようものなら罰が当たりますよ(笑)
ですがそのお気持ちには深く感謝したい思いです。
これからは今心の中にあるそれらを多く増やして関わった全ての人に渡していく、そうして本当の自立を果たし、本物の幸せをつかむ。そういう人生のフェーズに入っているのだと思います。他者からの評価に依存することなく、内面を強く逞しく磨いていき、それを元に自分も他者も幸せにしたい。
もう不幸や不平不満に執着せず、他者に対して何が出来るかを考え、実行しなければならない歳。
ぼくが人に与えていった優しさや愛情が人づてにどんどん伝わって遠くのあなたにも届けばいいな、そう思います。
ありがとうございました。
ぼでぃさとば
素敵な小瓶をありがとう。外見の美しさは儚いものだけれど、あなたが苦しみの中で磨き上げた魂の美しさは、この世で本当に価値があるものだと感じました。
ななしさん
小瓶を流してくれてありがとう。
胸がギュッとなって目頭が熱くなった。
小瓶主さんにも、誰かからの優しさや愛情が目一杯に届きますように。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。