いわゆる『推し活』をしている人たちとは熱量が違くて会話できないだろうなあ……とか思う。いや、そもそも特別誰か、好きなゲーム実況者さんについて話したいとかそんな思わないし……
「話を聴く」だけだったらまあできるんだろうか。
(この言い方で良いのかわかんないけど)
かつて、あまちゃん民だったりソウルメイトだったり国民だったり……
あとは志士の方とかイタリアの都市の……
はたしてその時もファンと呼べるものだったのか、昔より見る頻度は減ったものの今でも好きで気が向いた時にたまーに見たり、数ヶ月、数年、見てなくても気持ちとしてはずっと好きではあるみたいなのはどの立ち位置なんだろう?と思うわけです。
見なくなったのに、ずっとYouTubeのチャンネルは登録したまま……みたいな。
なんか、推し活してるような人たちからしたら「そんなん全然好きじゃないじゃん!!!」なーんて。思う人もいるのかなあって。
そしたらなんか、なんて言えばいいんだろうなあって。考えてしまう。
そういう人たちを考えると安易に「好き」「ファン」「推し」等の言葉を使うことに抵抗がある。
好きであるために、いかに好きであるかをアピールしなければならないのなら、好きでなくていい。
と結論付けた時に、
じゃあ彼らを思う気持ちはなんだろう?
そう発展させてしまうからモヤモヤがずっと解消されない性質な気がする。
たまに動画を見て笑う。
これはただの『視聴者』?
そこに『好き』という感情や『ファン』という肩書きを付け加えるべきではない?
「好きとかそんなんじゃなくてたまに見るだけなんですけど〜」くらいなら余計な誤解を与えない?
たぶん、怖いんだろうな。
一部の、推し活してる人たちの熱量なんかが。
ただでさえぼくは、人にバカにされてる恐怖みたいなのがあって。それは特に、学生たちにあって。たぶん不登校の経験とかからそうなってて。
誰かを一生懸命応援している人たちからすれば冷ややかな目で見られるんじゃないかとか。そんな恐怖があるんだと思う。
人は、いろんな人がいるからな……
触れもしてない人たちへの恐怖を薄めてくれるような人たちと触れ合えればいいんだろうな。
うん!そう思う。
おわり
ななしさん
熱量高めな人へ
誰かと比べた熱は自己への肯定にしかならないだそれを好きな自分が好きなだけじゃない?
ファンなら、どんな人のどんな好きも集めて届けたらいいんじゃない?
「今度、こんなイベントあるよ」とか
「このグッツ使って」とか
布教した方が推し活っぽくない?
熱量違い人への対応、私の場合。
「あなたの熱量に比べたら、私の好きは木漏れ日程の熱量だけど、私も好きよ。そんなに好きでいてくれてなんか私も嬉しい」
とか。
全く知らないなら
「存じ上げていなくて申し訳ない。とりあえず20分時間を使うとしたら、何から見たらいい?」とか。
ここまでのお返事はもしものお話。
実際は、私の好きは共感してもらえないことが多いから誰にも話さない。
「りんごが好き」でも、私の好きと相手の好きは一緒ではないことが多いし。
共感を求めず、一人で味わった方が私は幸せ。
共感かぁ。私だけの好きは私と共に終わる。それがなんとなくいやで共感を求めるのか。私の好きをあなたも好きになって!みたいな、やっぱり承認欲求に見えてしまうのだろうな。違うのに。
私の好きより、やっぱりあなたの好きが存在して欲しい。