こんなにめんどくさい性格なのに、どうして私なんかに付き合ってくれるんだろう。
私の理不尽で身勝手な態度に嫌な思いをするとかたくさんあったはずなのに、それでもなんで愛想をつかさないの?
きみは私のこと好きって思ってくれてる?
私は、きみのこと好きだと思えてるかな。
そんなに神経質に「本当の友情」なんか求めるべきではないかもしれない。
嫌なところがないから付き合うんじゃない、好きなところがあるから付き合うんだった。
きみのどんなところが私は好きなんだろう。
そんなことも考えずにこんなところまできてしまった。
逆にきみは私のどんなところが好き?
私のどんなところがあるから
きみの友だちでいられるんだろうか。
きみと付き合うことが私の得になるのだろうかと考えてしまう私のことを知っていて、きみは私を、それでも好いてくれているのだろうか。
こんなに醜い私のことを。
誰に肯定されたいのか分からないよ。
だからきみと話す私がその見知らぬ誰かに肯定されるかどうか分からなくて、だからきみといることで間違いを犯しているような気持ちになることがある。
きみを見つめながら別のひとのことを考えている私を、どうして見ないふりしてくれるの?
気づいてないだけだと思うけど。
友だちってなんなんだろう……と自問自答しているのは、きみを友だちだと認めたくないから。
私はいつも「こんなの友だちじゃない」って無意識に自分に言い聞かせるけど、本当、友だちって何なんだろう。
素直にきみのことを好きとも嫌いとも言えない私は臆病者で、卑怯だと思う。
たとえ誰に肯定されても否定されても、きみへの好意と嫌悪感、きみに対する態度・関わり方は私の信念をもって取り組むべき問題なのに
私は「友情とはなにか」なんて考えるポーズで、冷静で客観的に物事を思考している様を自分自身に演出している。
それは、本当は私はきみとの関わりに真剣に向き合って傷つく勇気がないってだけのことなんだろうなって、思う。
疑いのかけらもない気持ちを抱くことは、本来正誤ではかるべきものじゃない。
だからたとえば、たとえそれが傷心を生み出すにしても、それは善にも悪にもなり得ないだろう。
好きとか嫌いとか感じることはどこまでも自分に向き合うことで、それを損得ではかったり正誤をつけたりすることは自分に見切りをつけてしたたかに生きていくことだ。
それもわるいことではないけど、私はきっとしたたかに生きようとしすぎて自分と向き合おうとしていない。
正しいことを選べば、結果的に効率的なことを選べば得であるという考え方をしてきて、本来自分がなにを選びたかったのかを忘れたんだと思う。
てか、正しいってなんだろうな。
昔の私だったらきみを選んだだろうか。
飛びつくようになついたかもしれないし
目もくれなかったかもしれない。
勇気を出すか、臆病のままでいるか
それだけで自分の人生の大半が決まるくらいに単純なのに、私はくだらないことを考えるふりをして選択までの時間を稼いでいる。
何にも考えないできみと笑うだけの勇気も
きみを嫌いだと突き放す勇気もない
わりきって付き合う決意すらできない。
あなたとだったら馬鹿になってもいい
と自然に思える人がいるんじゃないかと思ってしまう。
でも結局誰といたってそうは思えないだろう。私の性格的に。
あなたと馬鹿になりたい、血反吐を吐いても、と、自分で決意するしかないのだろう。
正しい友情の手引きを求めている私は、きっとどこかがおかしいはずだ。
情に正しさなんてかけらもないはずだから。
今日も自分の中にある相反するきみへの態度できみを愚弄した。
きみと会話を楽しむ気持ち、きみのあまりの不完全さにおそろしさと怒りを抱く気持ち、きみに見捨てないでほしくて、すがりたくなる気持ち。
感情に正誤はないと言ったけれど、適切か不適切かという指標はあると思う。
そしてきみへの私の感情は大抵不適切なものだと思う。
考えすぎなのかな……
いつも自分は間違っている気がするから、実際そうなのかもしれない。
ずっと、なよなよしている自分が苦しい。
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