今までずっと人からは疎まれてきたと思うし、友達と言えるような人間関係も持ち合わせていない。
『本だけが友達』なんて揶揄される学生時代を送ったが、小説を書けるような文才も、読書家や批評家を名乗れるほどの見識も持ち合わせていない。仕方なく本に相手してもらっているだけ。
外に出るような趣味も合わない。人を惹きつける魅力などあるはずも無い。人の時間を奪うと嫌がられるが、本はいくら付き合ってもらっても『いつまでもお前の相手をしていられる余裕は無い』なんて言ってこない。
ただ、最近は心身ともに余裕が無く、本に向き合うのもおっくうになった。何より、特別ショックになるような読書体験があったわけでも無いが、本は自分の友達になってはくれないという当たり前の事実に改めて気付いてしまい、出口の無い感覚に襲われている。
ここまで下手くそな人生の送り方をしてしまった以上、もはや存在してるだけで害悪なのではないか?
そんなことはない、とわざわざ言ってもらわなくてもいいのですが、もし似たような(ここまでこじらせてしまった人はそういないでしょうが)経験をお持ちの方がいらっしゃったら、ご意見を伺えると有り難いです。
ななしさん
世の中には、人間関係を築くのが下手な自覚がなくて相手が不快感を覚えていることに気付かず自己中心的に振る舞う人がたくさんいます。
私には小瓶主さんの人間関係の持ち方は分かりませんが、仮に本当に人に疎まれがちだとしても、無理やり関わろうとしていないだけ優れていると思います。
少なくとも存在しているだけで害悪だなんてことはありませんよ。
それに、同じ本を数年あけて繰り返し読むと以前とは違うメッセージが伝わってくるような気がしませんか?
同じ人間が書いたものではありますが、本を完全に理解することはきっとできないのだと思います。どうしたってそのときの状況によって見方が変わってしまうのだから。
ある意味、本は読み手に応えているのではないでしょうか。
自分が本を読むという行動を起こした結果として得られる読み取りがその時々で異なるならば、現実の人間に話しかけて毎回違う返事が得られるのと然程変わりはないのかもな、と私は思っています。
そして、本はもともと読まれるために生まれてきたのです。本に意思があったとして、仕方なく読んでもらっているという感覚にはならないような気がします。
冗長になってしまいましたが本を友達と呼ぶことに差し支えはないというのが私の意見です。
生身の人間関係も築きたければTwitterで読書アカウントなど作るのも良いと思います。
案外作家さんが顔を出していらっしゃってたまにファンに返答してくださったりもしますよ。
本を読む集中力がなくなってきていたら朗読を聞くという手もありますし、他の趣味に興味が持てなければ無理する必要はないと思います。
読書に関連する趣味として、私は本の世界をミニチュア的に立体化するのが好きです。絵は描けないので幅は狭いですけどね。笑
文章を切り絵にしたりするのにも惹かれます。
長文失礼いたしました。
ななしさん
学生時代は小説や純文学を読むのが好きでしたが(洋の東西を問わず文学全集をとにかく読み漁ってました)、社会人になってからはルポと旅行記、海外の景色の写真集、自伝が中心になりました。
実際に旅行に行き全て追体験するのが一番ですが、そうでなくとも家で地図を広げて経路を辿ったり、出てきた料理を再現してみたりでも良いと思います。そうした体験ひとつひとつが話せるネタになり新たな趣味になったりという感じです。むろんそれはコミュニケーションにも役立ちます。
「書を捨てよ、町へ出よ」という言葉がありますが、個人的には「書を携えて外に出よ」だなぁと思います。もしかすると小瓶主様も違うジャンルの本に出会う過渡期なのかもしれませんね。