辛かった時間を乗り越えて、新しい生活が始まったのは今年の春から。出会った人たちはいい人たちばかりで毎日が楽しかった。
でも不安定さは無くならなかった。定期的に辛かった時のことを思い出して涙が止まらなくなる。その度にもっともっと昔のことまで思いを馳せる。たぶん、気がついたのが遅すぎた。
1番幼い頃の記憶はおそらく2歳。つかまり立ちができるようになった妹が手を火傷して、両親がひどく慌てている光景。最近まで、ただの1番古い記憶だと思っていた。
それは私の記憶ではあるものの、あくまで主人公は妹だった。
幼稚園の時の記憶もかなり残っている。人間、ネガティブな記憶の方が残ると言われているにも関わらず、楽しい記憶がたくさん。でもその当時の家族との記憶はほとんど思い出せない。思い出せても、悲しかった記憶しか出てこない。
勉強が始まった小学生。父から100点が普通だと言われた。そうなのだと思った。それがちゃんと勉強している証拠なんだと思った。妹にはそれを言わない父に違和感を抱いた。
高校生くらいの時に謝罪された。それでも私が悲しかった記憶は消えない。無かったことには決してならない。
できなかったことを怒られるより、できたことを褒められたかった。今、両親から褒められても何も満たされない。
結局私は、あの頃褒められたかったのだ。家族の中で私だけがずっと過去に囚われている。
年齢が上がるにつれて、恋愛だとか恋人だとかその先の将来について考えるようになった。そこでもまた気がついた。私は隣に誰かがいる想像が全くできない。
恋人がいたことはあった。でもいざ思い返すと、与えられたものの返し方も受け取り方もその時から分からなかった。
人の気持ちには敏感な方だと思う。変化にも気がつく方だと思う。日常の何気ないことも覚えている方だと思う。でも、それらしい素ぶりを見ても本当にそうなのかという疑いは、絶対に消えない。
自己肯定感が低い自覚はある。自覚していたところで、自分に自信を持てるわけじゃない。自分の判断も信用できない。
だから私には推しがたくさんいるのだろうと思う。彼らが愛を届けるのはファンという不特定多数。私宛てに届くことは絶対にない。私の愛が周りより少なくても気づかない。それに酷く安心する。だから認知されたいと奔走するファンの思考回路を、私はあまり理解できていない。
たぶんそれは、返し方も受け取り方も分からないからだと思った時、点と点が繋がった気がした。
自分のことを分かった気になっていただけで、結局は何も分かっていないということがようやく分かった。外側にいる私が、内側にいるわたしを覆っている膜を読み解けただけ。私はわたしにまだ触れられていない。私が「今まで辛かったね」と声をかけても、わたしは何も応えない。
自分を大切に、と意識していてもあまりできていないんじゃないかと思ってしまう。そもそもどこからが蔑ろにしているのか分からない。
知りたくても、答えは返ってこない。
何も。