人生そこそこ長い時間生きてきた。
周囲に比べて環境をコロコロ変えてきた人間だと思う。
何かをやりたいだとか何処に行きたいという願望ではなく、私は常に周囲と自分とのギャップを確認したかったんだろうと今になって思うのである。
私の学生時代はあまり周囲に溶け込んでいる感じでは無かった。
まぁ場の空気というものは其処に居る人間が作り出すものであって、正しさは然程重要ではない。
毎日を過ごす上で不便ではあるが、割り切る事は難しい事ではない。
只、本当に正しいのはどちらかという答えは知っておきたいという気持ちは昔から持っていた。
自分が間違っていたのならそれで良い。
元々私は剽軽なタイプであった。
中学では俗に言うスクールカーストをフル無視して会話をしたもので、目立つ集団に嫌われて目立たない集団に好かれる様な状態であった。
クラス委員とかやってたり、成績もそこそこで異性人気も若干あったらしい。
虐めを受けたのも丁度その頃である。
高校に上がって私は自己主張を辞めた。
今思えば目立つ事の弊害を手放したかったのだろう。
そして周りは思春期を抜けていく。
今まで周囲が私にNOを突き付けていた行動を是として取るようになっていく。
この頃から周囲との整合性が取れずにパニックを起こしていく。
会話が噛み合わず溶け込めなくなっていく。
その頃からラジオにのめり込んだ。
オールナイトニッポンに結構な量のハガキを書いた。
今思えば
『私の言ってる事はそんなに的外れだろうか』
という答え合わせの為に、第三者に確認を取る作業だったのかもしれない。
案外読まれる。
あぁ、こりゃ環境だわ。
そう思ったのが始まり。
なんやかんやあって今に至る訳だけれども。
結局そういう事じゃないんだよね。
中身なんてどうでもいいんだって。
未だにわからないもん。
人が人に何を求めてるかなんて。
誕生日やイベントにプレゼントを貰うのがすっごい苦手。
デートに彼女がお弁当作ってくるシチュエーションがすっごい苦手。
善意や好意がすっごい苦手。
どういう顔していいかわからないもん。
内面の嬉しさとか出ていかないから。
満たされると戸惑うんだよ。
誰よりも自分が自分を嫌いなのに、その自分に向けられた善意が堪らなくなる。
申し訳ないというか、勿体ないというか。
そう思う事すら失礼だから、あまり普段から人を気遣わないし、親しくなるのも億劫ですらある。
自分を出すと顰蹙を買うから自分を殺して生きてるのに、その自分に向けられた善意や好意はどう受け止めたらいいのか見当が付かない。
環境を変えようがコミュ障は強くなる一方で、周囲とのギャップは開いていく。
何より皮肉なのがギャップは開いていくのに対して、話が理解できる様になってしまってる事だ。
恐らくこれは取り返しがつかない。
でもそんな孤独嫌いじゃない。
周囲が誰かと一緒に居るのが当たり前過ぎて、それに準じたいだけの様な気がする。
多分満たされた処で孤独に戻りたがる気もする。
動物や子どもにやたら懐かれる人畜無害のオブジェとして終わっても納得はできる。
人が好きなのか。
人が嫌いなのか。
こんな事考えてるうちは時間の共有なんて、しようと考えるべきではないね。
目の前に居る人は大事にしたいからね。
そもそも孤独を感じる程誰かと時間を共有したかって話。
肩書だけでしょ?って。
心なんて開けなかったじゃん。
開かなかった結果目の前の人間が誰を好きなのか分からなくなってたじゃん。
心は消しゴムと一緒。
擦り減って裂けた所から千切れていく。
多分ど真ん中から裂けちゃってるんだよ。
孤独という言葉に酔ってはいけない。
それが日常。
孤独は自覚した時から孤独だ。
特別な日じゃない。
他人の気持ちに敏感な人間が他人と親密になった処で疲れるだけだよ。
貴方はそんなに器用じゃない。
『そうならなかった』
八方塞がりだ。
自分に愛情を向けられない報いだ。
受け入れろ。
そんなに困ってないだろ?
これ以上異端になりたくないってだけで。