「考えるより先に体が動かないからいいか」って。「本能として助けに体が動いてないからいいか」みたいな。
誰もが誰もに慈悲の心があるわけでも惻隠の心があるわけでもない……というか。
力も同時に備わってる必要があるとか。
「助けなきゃ」なんて考える前に助けに動いてる人ってたぶんいるじゃん? みたいなさ。
ヒーローになれない自分を肯定するための救いの考えに惹かれてしまったりする。
「最後まで面倒見れないのに半端に手を差し伸べるのは迷惑だ」とかなんとか一理あるような言葉を並べ立ててみたり、まずじゃあそれなら「最後まで面倒を見れるような力を手に入れる努力を……」など思考を続けて。
そうなりたいならそういう努力を。
そういう努力をしなきゃいけないならそうなりたくない。
うるせぇ!四の五の言わずにやれ!
うるさい!いやだ!知らない!
……助けてほしいのは十分わかってる。
ごめん。なんて謝る意味もない。っていうかそんな言葉もわざわざ言いに行かない。
大多数の人がそうだとかそんなのどうでもいい。
“自分が” どうしたいかを今探してる最中だよ。
死ぬまで見つからないというか見つけようとしないというか、決めないというか……もう今実行中かもしれないし。それが気に食わない人もいっぱいいる。
本人なりに一生懸命生きてても、周りに迷惑かけてるからそれやめてほしいなあ。なんて。心の中では思ってたり。
病気だからしかたないとか、そういう特性だからしかたないとか。納得させたり納得できなかったりで1人1人個人的に動いたりして。
諦めきれないから治らない病なのに一生懸命どうにかしようとする人もいれば、早々に諦めて治らない病以外を一生懸命どうにかしようとする人もいる。
だからなんなの?
今日もこんなことをべらべら喋ってどうしたいの?怒られたいの?迷惑がられたいの?
「そんなことないよ」って言われたい?
「いいよ」って肯定されたい?認められたい?
生きてるだけじゃん……
今日もなにもせずに。
死ぬまでの暇つぶしでどうでもいいこと喋ってるだけ。
「それでもいい」っていう声と「それじゃだめ」っていう声が、どっちか一つになることはないんだよ。世界中の人間がわたしに、皆の総意はこれです!ってどちらか1つの言葉を提示してきたらその時考えを改めなきゃな……って思うくらいの問題だよ。
こないだの精神科への通院で、先生から『反主体性』って言葉をいただいて、そういえば前に関係するであろうことをお返事でいただいたなあ……とも思ったりして。
なんか、『主体性がない』んじゃなくて、『“反”主体性』なのがすごいしっくりくる。
おもしろいなあ。
もうちょっと自分のこと研究してみたいなあ。
じゃあ本日ここまで!
お疲れ様でした