誰かに親切にするときに、その「親切な人」が自分であることを隠す習慣の友人がいる。
「親切にする→親切を期待される→親切にしないと逆恨みされる」
という流れをよく知っているからだという。
「親切にするたびに、人間のさもしさを目の当たりにして自分の精神削られるんじゃ、割に合わないっしょ」
と彼は言う。
なるほどと思った僕は、彼のやり方に倣うことにした。
その結果、周囲の僕に対する評価は「冷たい人」になった。
小学校の高学年の時の話だ。
自慢じゃないが、この頃から、僕は一度たりとも「優しい人」と評されたことはない。
知人友人からの頼み事は片っ端から断る。
本人に気付かれる恐れがない場合は、気が向けばサポートする。
公共の場での通りすがりの親切は、できる限りする。
これが、僕の人助けの基本的なパターンだ。
さて、人が自己開示を意図していないときに開示してしまう自己ほど信頼性の高いものはない。
この状況で僕を「冷たい人」と呼ぶことは:
・自分にとって都合のいいように動いてくれる使える人間を「優しい人」と呼んでいます。
・それ以外の人は「冷たい人」です。ボキャブラリーが貧困なため、それ以外の表現を思いつくことができません。
・自分にメリットがあるかどうかだけが優しいか冷たいかの判断基準です。自分以外の他の人に親切かもしれないと考える想像力は持っていません。
とご丁寧に自己紹介してくれているようなものだ。
↑さて、こういう人たち、親しくお付き合いする価値ありますかね?
行商人になる前に勤めていた企業でのこと。
所属部門内にコールセンターを置いていたことがある。
あるとき、社員がお客様から厳しい叱責を受けた。
上司を出せというので、上司が出て話を聞いていると、そのお客様が、
「あんたのところの社員はなんだ、まるで他人事だ」
と言ったらしい。
涼しい顔でこれを聞いていた上司は、
「まるでじゃなくて、実際、他人事なんですよ。この回線は、もともと他人事のヒアリングのために設置しているんですから」
と返した。
お客様は、ぐうの音も出ず、何か喚いて電話をガチャ切り。
このお客様にとっては、上司は「自分の悩みに寄り添ってくれない冷たい人」だろう。
しかし、部員たちにとっては、「カスハラから社員を守ってくれる優しい人」。
そういうことだ。
「Tさんて、ほんとに冷たいよね」
僕に助けられていることも知らずに、陰で僕の悪口を言っている人がいることも知っている。
それでも僕は、できる範囲でサポートする。
それは、相手を助けることではなく、「自分にメリットになる他の何か」が目的だからだ。
例えば、相手が関わっている事態を改善すること。
その事態を改善することが、巡り巡って自分のためにもなるような場合。
あるいは、相手をサポートすることで自分自身のスキルアップになる場合。
つまり、僕の親切のリターンは、「相手からの感謝」ではなく、「改善した状況」「スキルアップ」ということ。
何かの間違いで僕の関与がバレて、相手がたまたま感謝の心を持つ人物だった場合。
相手の感謝やお礼は、言ってみれば「ボーナス」みたいなものだ。
このやり方のメリットはもう一つある。
「冷たい人」という評判を確立してしまうと、「簡単に頼みごとが出来ない人」と認識され、いいように使われることがなくなる。
逆に、たまーに気まぐれに、これみよがしに親切な行いをすると、
「あの」Tさんが!?
と驚かれ、めったやたらと感謝される。
「あの」って何だ。
ともあれ、こっちの方がずっと精神衛生にいい。
僕は妹にもこの戦略を吹き込み、彼女も子どもの時から「冷たい人」呼ばわりされて育った。
僕たちにとって非常に幸いだったことは、親から「優しい子になあれ」という呪いをかけられていなかったことだ。
僕ら自身が自分で考えてこのやり方をしようとしても、親からの圧で、自己犠牲を美徳とするよう洗脳されていたら、こうまで迷いなく我が道を行く選択は出来なかっただろう。
お陰で、野蛮なこの世界を生き抜くのにふさわしい適度な野蛮さを、僕も妹も身に着けることが出来た。
集り気質がひしめくこの世界。
実態が「優しい人」であるほど、ガワは「冷たい人」アピールする戦略をとる方が賢明だ。
そうすれば、テイカーたちにロックオンされずに済む。
無駄に傷つかず、心穏やかに生きるための一つの方策だと思う。