もしかしたら、大切な人を無意識のうちに追い詰めていたのかもしれない。私は大切な人には自分の身を削ってでも奉仕したい人間で、その大切な人からも「そういうところが好き」と言われていた。でも、それが継続的に続くと、いつしかその気持ちは相手に伝播して、「私も奉仕しなきゃいけない」と思わせてしまう。思想の押し売りが起こってしまう。それが積もりに積もって、ついに嫌われてしまうこともある。
もしかしたら、ずっと気を使われていたのかもしれない。私はよく"無価値な人間だ"とか、自分の行動に"付き合ってもらっている"と考えがちな人間で、その大切な人からは「私が○○と一緒にいたいからだよ」と言葉を掛けてもらい、励ましてもらっていた。
勿論、私自身も大切な人に対して、「ありのままの○○が大好き」や「どんなことがあっても、○○との関係は大切にしたい」と口頭で伝えていた。しかし、この言葉すらも大切な人を縛り付ける呪いのような言葉なのかもしれない。私がこういった言葉を伝える度に「私だってだいすきだし」と、私を安心させてくれる言葉をかけてくれていた。
これも全て"気を使われているうえでの"優しさだとしたら、自分という存在が憎くて仕方なくなる。
今現在、その人は病んでいて、病んだ内容の投稿をしては、即消去するというのを繰り返している。その内容全てが私に向けられていると思うと、どうしようもない感情に駆られ、謝りたい、許されたい、どうすればいいのか、という気持ちが湧き上がってくる。
病んだ原因は"人間関係"と言っており、そこでもまた自分のせいだと追い詰めてしまう。その人との連絡は今でも続いているが、どこか以前より距離を感じる。ぎこちなさ、そっけなさ、冷たさ。その全てを感じ取ってしまう。"また一緒に遊ぼう"と言ってくれてはいるが、それすらも本心では無い優しさだとしたら。
これら全ては根拠の無いもので、もしかしたら本当に別件で病んでいるのかもしれないし、病んだ反動で返信がそっけなくなっているだけなのかもしれない。根拠の無い"もしかしたら"が自分を侵食して、自分を否定させようとしてくる。そしていつしかそれは恐怖になる。
大切な人を傷つけ、その人から嫌われてしまう要因は言葉だけじゃない。態度、思想、距離感、全てが"嫌われ"に結びつく。そう感じ、学び取った時に、自分という存在が心底嫌になる。
皆様はこういった経験があるのでしょうか。"もしかしたら"が拭えない日々、その恐怖に支配され、倦怠感や吐き気に犯される日々を過ごしたことのある方はいらっしゃるのでしょうか。
大切な人に嫌われることが本当に嫌いな人間の独り言でした。
どうか、私の大切な人が、私を嫌いになっていませんように。