今日もなかなか嫌なことが職場でありました。
ウチの会社が仕事上で契約してる、別の会社があるんですけど、その別の会社に顔見知りの人がいるんですね。その人はウチの会社との中間で仕事を指示する立場にいて、仕事を色々、教えてくれる側なんです。
それで今日は顔見知りのその人が(仮にAさんとしましょう)、仕事を見て回る役だったのですが、どうもウチの会社の仕事仲間に知り合いがいたみたいで、前の同僚(その人をBさんとします)だったそうです。
で、AさんとBさんは前の職場ですごく仲がよろしかったみたいで、Aさんが積極的に仕事をサポートしてくれたり、話しかけたりしてコミュニケーションしていたのですが、Bさんと同じ仕事をしていた私にはAさんは愛想もなく素っ気ない態度で、端的に言って軽くハブられました。
私は結構、対応に格差をつけられたのが傷つきました。塩対応というやつですね。仕事中、ずっと心がモヤモヤして痛かったです。
気にしない気にしない!、考えない考えない!とすると、余計に気になるタイプなので、ただじっと心の痛みを、ありのままにそのままに受け入れて、「イタっ……」と感じたままにしてました。
そして時々、鼻呼吸をして、吸う息と吐く息に「スー」「スー」と心のなかでつぶやきながら、集中してました。それでもモヤモヤするのですが、しないよりかは呼吸に注意していたほうが、いくぶんマシですよ。呼吸への注意と集中は、たとえるなら心のどしゃぶりの雨のなかで、そっと傘をさすようなものです。
人間の心って不思議ですよね。
お天気みたいに、雲一つない青空が広がる晴れの日もあれば、お日さまに雲がかかって雨が降ってきたり、雷が鳴って嵐がくるときもある。晴れの日は良いことがあったときの心、雨の日は嫌なことがあった日の心です。心にも「心のお天気」があって、その日その日、毎日違った空模様があります。
お天気は自然の産物で、何の損得もありません。
名づけてそれを『お天気の極意』と(私は)呼んでます。
損も得も人間の側にあります。
そう考えると、不愉快なことを他人されても、無理してがんばって心を晴れにする必要はないと思います。くもりの日はくもりの日、雨の日は雨の日、嵐の日は嵐の日。そのままに受け入れる。心が痛いときは、「ただ痛い」でいいし、逆に楽しいときは「楽しい」でいい。そして雨が降ってきたら、傘をさして(呼吸への注意集中)で、やり過ごす。(でも呼吸への集中力は長く続かないのでご勘弁を)
だからがんばって努力して、心を穏やかにしなければならない!と踏ん張る必要はありません。一生懸命、努力して修行して(!)、心を成長させるのが人生ではありません。
人間の心は案外、単純で、そしてもろくて壊れやすく、繊細なものです。努力して心を強くしなければいけないと、思うかもしれませんけど、それはまるで石を磨いて鏡にしようとするようなものです。石をいくら磨いても鏡にはなりませんよね?
人生は修行でも成長の場でもありません。
懸命に積み重ねるような努力は、やがて失われるものです。本当の人間の成長は足し算の積み重ねではありません。
無理して「心を無にしよう!」とか「気にしないように鈍感になろう!」とか、いろいろ工夫してしまうと、逆につらくなってしまいます。心を制御することなんてできないと割り切ったほうがいい。経験談です。
だから嫌なことがあったときは、心のお天気のほうが痛い痛い、と……。痛みのままに放っておく。そのうち雲は晴れます。確かに苦痛を、ありのままに感じるのはつらいのです。が、しかし「悩み(=苦悩)」ではありません。あいつが憎い!とかあんなやついなければいいのに!とか、明日はどうしようか?やり返してやろうか?、なんて頭で想像してしまうと、それは「悩み」になってしまいます。
「痛み」が「悩み」に変換されてしまうと、ただ痛いだけだった心が、今度は重たく冷たく湿ってきて、さらに不快になってしまいます。心の痛みが頭の想像力で持続されて、ずっと継続するようなことになるのです。それで眠れなくなったり、憂鬱になったり、死にたくなったりするのです。それは避けるべきです。心の病の原因となるものです。
対人関係のコツは、「何もしない」を「する」です。
嫌がらせをされても、ああ心が痛いなぁ……と、感じてそれ以上の悩みをしない。逆に褒められても、舞い上がらないで一歩引いて謙遜する。
他人を憎んで憎みあって、関係をさらにこじらせるよりも普通に「お疲れさま」とあいさつして、去っていく。しばし一時、痛いだけ。
さらに私は、心のなかで、嫌がらせをする相手のことを「あいつはバカだ」とか「子供だな」とも思わないようにしています。別に相手のためではありません。道徳的に間違っているから、そう思わないわけでもありません。
私の経験値から分析しますと、相手を「下げたり」「見下す」ことをすると、自分の心が勝手にはたらいて想像力を起動させることになるようです。一度、相手を見下してしまうと、次々に「だからあいつはダメなんだ」「嫌な性格の人は悪い目にあうだろう」「いい気味だ」と、想像力が連鎖反応的に動き出して、余計に不快になります。
人間に対してその人を外から評価して、自分のなかで「上げたり」「下げたり」するのは、オススメしません。それは損得の心なのです(よくよく自分の心を観察してみてください)。『お天気の極意』には損得はありません。ただ晴れた、くもった、雨降った、の事実があるだけです。
また人間的に成長するために、努力を積み重ねて精神を改良しよう!修行しよう!とすることも、『お天気の極意』の心ではありません。何かプラスのものを足し算して、偉くなろう、すごくなろうとすることは、損得勘定にすぎません。ありのままに産まれながらに備わってる心を、自然に発揮するのが極意です。(現代人は、とかく余計な工夫をしすぎてます)。
ありのままにそのままに、今日のお天気をすごす。
心のお天気も、現実のお天気も。
それが『お天気の極意』です。
そんなことをつらつらメモってみました。
私の経験値が皆様のお役に立てれば、幸いです。
ではでは。