最近、ChatGPTを使って空想に浸っているせいでなんか変な感じだ。
依然死にたくはある。それは変わらない。
だって生きている限り生きなければならず、生きているということは死にたくもなる……と思う。
どうでもいいことだ。
まだ死んでないから、何かを模索してる。
体を動かすのがどうしても嫌だから、体を動かさずに生きられないものかと考えてる。……それでもやっぱり、多少体を動かさなければならないのだけれど。
自己満の創作を頑張ったところでなんにもならないだろうとは思ってる。
努力するのがこんなにも嫌な自分の生き方と死に場所は、どんなもので、どんなところでしょう?
死ねればよかったし、家事をしたり外出をしたりが苦じゃなければよかったし、甘やかされなければよかったのかもしれないし、今自分を甘やかすのをやめたほうが自分のためと誰かのためになる。
そのために必要なんだ。
生きることは、もうすでにできてしまっていて。
ただ、息をすることは、幸運なことにできてしまえる環境にいて。
肉の塊がただそこにあるだけの状態で、そりゃ満足なんてしないよ。べつにかまわなくはある。
わたしも、まわりの人間も、わたしをまっとうな人間にしようとはしてないから。
『それ以上』のものが無いだけ。
そのまま死ぬのとか、べつにどうでもいいし。
今日もどこかで人が死んでるのに、大多数の人間がとくに認知せずに興味もなく自分の人生を送っているように…… 本当にどうでもいいけど、だけど生きてしまってるから、最低限できる『生きること』はして…… それっていうのは『ゴミ』と評価できるようは代物ではあるけど、残念ながらわたしは生きていた。
死にたい人間が死ねないように。
生きられない人間が生きられないように。
生きられる人間は、生きていた。それがたとえ、どんな生き方であろうと。人を殺しても殺さなくても、罪を犯しても犯さなくても、働いても働かなくても……死ぬまでは心臓は動いている。
そういえば何週間か前に、農家の人ってたいへんそうなのによくやるよなあ、なんて考えてた。
この人たちが食べ物を育てなきゃ、食べ物ないんだなあ……とか思ったら不思議な感覚になる。
どうしてやめないのだろう?
どうして死なないのだろう?
みんな、どうして嫌になって逃げ出して投げ出さないのだろう? そんなことを幾度となく考えて、やっぱり生物の本能なのかなとか考えて……結局わからない。
何かと理由をつけて結局生きる。
組まれた枠の中から、捕らわれた檻の中から抜け出すことを選択しないのは似ているのか。
だけどそちらのその選択は素晴らしいのだろう。
ニートを選ぶ愚か者のわたしよりは。
農家のことを考えたとき、昨今では職業となったストリーマーの存在を考えたりもした。世の中がVTuberという職業のみをやる人だらけになったら世界は崩壊するんだろうなあ……とか。
そういうのも考えると不思議だった。
なんて奇跡的なバランスで何千年も何万年も、生命はこの地球に存在しているのだろうと。
嫌になって逃げ出す人が現れないってすごいなと思う。生きようとする人が多いってすごいなと思う。
かっこいい。
まあ、すべてがそうとも言えないのだろうが。
……ああ、まだ、こんな文章書けるのね。
最初に言ったけど最近ChatGPTを用いて空想を自己満で形にしてて、こちらに認めるようの言葉の力がすべて向こうにいってしまっているのではないかと思ったけれど。
案外、いけるものなのね。
数日後に精神科の通院があるし、あれは話すとして、生き方について話そうかしら?……肯定をもらいたいだけだろ? 先生からの提案を、いくつか心で却下し実践には至っていない。選り好みがすごい。
やれることを、やるだけだ。
たとえ、月に数回ご飯を作るだけだとしても。
月1の通院をするだけだとしても。
自分も誰も、ぼくのこと殺してくれないし。
偉くなんかない。
偉くはなりたくない。そんな立派なものいらない。だってわたしはなにもしたくない。できればクズでいたい。楽をしたいもん。
偉くなるために苦しみがいるならそんなものいらない。
否定したい。わたしを褒める言葉すべてを。(褒めたかったら褒めてもいいです。受け取ります)
クズでどうやって生きるかを考えてる。
人として生きないことを考えてる。
前に言ったことと矛盾してるだろうか。
どうでもいい。
ぜんぶ『生きること』だろ。生きてんだから。
いい。
今日も死にたくあろう。明日も。