ななしさん
苦しい時は、或程度の苦しみならば、何とかやり過ごしたりどうにかする仕方というものがあると思う。専門家に相談するとか、そういうことも、ないではない。ただ、耐えるしか方法がない、或は思いつかないということも、確かにある。何も信じられず、自分も信じられないという可能性も、ないではない。耐えるというか、弱音を吐いたり泣いたりしてもいいから生きているということが、大切なときある。
あなたの宗旨が許すという前提で、書く。あなたに強制するのではない。
観音のところに行って手を合わせるのも、いいと思う。聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、不空羂策観音、など。念彼観音力(ねんぴかんのんりき)というから観音に(或は観音を)念じることでもいいとは思うが、実際に観音のところに行くのがいいと思う。そのような、よりどころというか、そういうものがある方がいいと今の私自身は思う。まあ、観音のことばかり言うつもりはないのであるが。因みに、オン・バザラ・タラマ・キリク・ソワカというのが、千手観音の真言である。
今、あなたは毎日が苦しいと思うが、苦しい時を乗り越え、老いた時に、たとえば夕陽を見て、しみじみと感慨に浸れる時が来る。公園や自然の中を歩いてみるのも、いいと思う。苦しんで、人の苦しみが分かるからこそ人にやさしくなれるということがある。そしてつよくなれるということがある。あなたが今どのくらい苦しいのかは分からないが、一番苦しい時を何とか乗り切れれば、少しずつ冷静になって方策が見つかるというときも、多分ある。苦しい時には、苦しいということばかりに意識が行ってしまって、あなた自身がおかれている状況とかあなた自身の状態とかを冷静には見られなくなっていると思う。
余り役には立たなかったかもしれないが、この辺で書くのを止める。
ななしさん
多分、余り関係ないとは思うが、書く。
生きるというのは、辛いと思うことが多い。自分の場合は、辛いというよりは、苦しすぎて、生きるという気力さえなくなってしまうほどの苦しさだった。幸せとは何なのだろうかと考えたり、自分は幸せにはなれないのだろうかと思ったり、何故こんなに苦しいのだろうかと考えたりした。考えても仕方のないことを毎日考え、悶々とした日も、何日あるか分からなかった。何日というよりは何年といった方がいいのかもしれない。或本に、「人生の正午」という表現があった。精神科医の書いた本で、人生の正午までは生きてほしいというようなことが書いてあったような気がする。約四十年生きてきて苦しいことばかりだったが、そのような人生の正午をこえたような気がする。死ぬことを何度考えたのだろうか。何度死のうとしたのだろうか。そして何度死を覚悟したのだろうか。
あなたにも、耐えなければならない苦しみが、たくさんあるかもしれない。そして耐えられないと何度も思うかもしれない。毎日毎日、朝起きた時に、まだ自分は生きていたのかと、思うかもしれない。それでも、毎日生きて、弱音を吐いても辛くても、何とか耐えて、辛い時を乗り越えれば、生きていてよかったと思える日がきっと来る。色々、考えると思う。それでも、生きていれば、穏やかな心で生きていける日が、きっと来る。何年先か、或は十何年先かは分からないが、寒い冬が終わって春を迎えるように、辛い時も、永遠には続かない。苦しい時は苦しいという思いばかりがあると思うが、それも永遠には続かない。そのような希望をもって生きるのが、いいと思う。
あなたの宗旨が許すという前提で、そしてあなたに強制するのではないという前提で、観音のところに行ってみるのも、いいと思う。観音と言っても聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、不空羂索観音、などがいるが、近くの観音のところに行ってみるのも、いいと思う。或は、仏ならば、あなたの先祖の菩提寺にいる本尊に祈るのも、いいと思う。因みに、オン・バザラ・タラマ・キリク・ソワカというのが、千手観音の真言である。先祖供養をすれば何とかなるという話では必ずしもないが、時々墓参りをして、先祖の冥福を祈るのも、いいと思う。自宅に神棚があれば、きちんとしていた方がいいと思う。
余り役には立たなかったかもしれないが、この辺で書くのを止める。