おとなになるって、どういうこと。
貴方はもう、おとなですか?
大きい人とは書きますけども、
いったい何が大きいのだろう
身体だろうか、
声だろうか。
でもよくよく思い出すと。
早くおとなになりたい、
そう思うときは大抵、
「大人」に憧れているわけではなかった。
「大人」だけが許される、
なんでもない快楽や、
どうしようもない自由に
ただ、焦がれているだけだった。
じゃあ、おとなになるって、
どういうこと。
ここまできて、20歳をこえたらです、
なんて、言えないだろう。
それはやっぱり、周りが決めたことにすぎないからだ。
このようにぐるぐる思考をまわし、
おとなになる、ということがわからなくなってきた頃に、
いつだって思い出す話がある。
高校二年生の時、離任される先生が
壇上で別れの言葉として私たちに伝えてくれた話だ。
「…皆さんは自分のことを、おとなになったと思いますか?
小学生のころに比べて落ち着きが出た、中学生の頃よりいろいろな人の話を聞いて、納得することが出来るようになった。
そんなふうに、自分の成長を思い浮かべる人もいるかもしれませんね。
私は、高校生くらいの時に、
「自分はもしかしてもう既に「大人」になってしまったのかもしれない」と
自覚した瞬間がありました。
それは、…言いにくいのですが、
トイレに入っている時でした。
小さい頃に、普通の紙は流してはいけないのに、なぜトイレットペーパーは流してもいいのだろう、と考えていたことを思い出したのです。
そこで私は気づきました。
『あぁ、「大人」になるということは、【あたりまえ】が増えていく、
ということなんだ。』と。
もちろん、トイレに入るたび、
そんなことを考えていたら大変です。
例えばお月様がどうして地球におちてこないのか、なんて思ったところで、
お金になんかならないし、
お腹も膨らまないでしょう。
「大人」にはたくさんの自由があるけれど、それには責任が伴う。生活が伴う。
そうやって、現実をしって、
いつしか【あたりまえ】として、
なにも感じなくなっていくのでしょう。
いつかは皆も「大人」にならなくてはなりません。それは、この時代の、この社会に生まれてしまった宿命です。
でも覚えていてほしい。
どこにも【あたりまえ】などないということ。
ほんの少し思い出すだけで、
きっと世界に色がつく。
このことを未来の子供達に伝えたいと思って、私は先生になりました。
君たちがまたさらに成長したとき、
私が望む『大人』になっていますように。
また会える日を楽しみにしています」
その言葉がとても印象的で、
そしてとてもショックで。
そのあと先生のところに行って、
原稿が欲しいと頼み込んだ。
赤ペンでの修正が多くあり、
私たちにこの言葉を伝えたいといった先生の熱意が読み取れた。
今でも私の宝物である。
…こんな風にして、おとなになる、
ということを考えてみた。
さて、
貴方は、もうおとなでしょうか。
「大人」でしょうか。
それとも、『大人』でしょうか。
私は明日、
一つ歳をとるけれども、
ただ歳をとるだけじゃ『大人』には
なれませんね。