2016年3月12日。回想と思案。
四月から遠くに行きます。
知ってる人はひとりもいないです。
寂しいです。
だけどどきどきもします。
期待と不安が心を引っ張り合っているみたいで、
毎日犬や猫のようにコロコロと感情が忙しいです。
ひとりで暮らしたことがないから心配です。
同じぐらいひとりで暮らすことが楽しみです。
僕は今ゆらゆらとしながら残りの毎日を過ごしています。
最近は昔のことをよく思い出します。
僕が僕になったのはこの6年ぐらいの間だったと思います。
ゆっくり思い返してみると、色々な事がありました。
まだ近くに居る人や、覚えている人、もう忘れてしまった人も
沢山の人と出会い、喧嘩して、笑って、そして別れました。
大きなことから小さなことまで多くの出来事がありました。
知らない人がたくさん死にました。
知っている人も何人か死にました。
誰も信じられなくて震えていた時もありました。
何もかも嫌になって全部消えてしまえって思う事もありました。
嘘をついて裏切った事も、嘘をつかれて裏切られた事もありました。
挨拶みたいに繰り返す絆とか未来とか綺麗な言葉よりも
自分の届くものを大切にしたいと思いました。
分からない事や知らない事ばかりで不安ばっかりでした。
意味もないのに川岸をずっと歩いていたり。
訳もなく電車に飛び乗って遠くへ出かけたり。
自分には何もない訳ないって、何かあるんだって思いたかった。
何かあるはずの、自分だけの何かをずっと探していたんです。
生きる事や死ぬ事を、何度も何度も繰り返し考え続けて、
たぶん人は一人で生きていく事はできないって思いました。
自分の中にしか生きていく意味が無いのなら、それは簡単に潰れてしまう。
何故なら、その意味を共有する事が出来ないから。
伝える事のできないものはこの世界には無いのと同じだから。
赤色しかない世界で、人は夕陽の美しさに気付くでしょうか?
青色しかない世界で、人は青空を仰ぎ見る事があるでしょうか?
言葉でも、文字でも、身振りでも、繋がる事で初めて意味が生まれると思います。
色々な思いが重なって、混ざり合って景色が出来ると思うのです。
僕はもう、夕陽や青空を知っています。
好きな音楽や小説を知っています。
手のひらの柔らかさや涙の切なさを知っています。
でももっと、もっと知りたい。
残酷な事や、辛い事を知るのだとしても、僕は僕の視界をもっと彩りたい。
自分の何かが正体不明のままだとしても、誰かの何かを見てみたい
何度裏切られてもがっかりしても、僕は誰かの笑顔が好きです。
僕は笑う事が苦手だから、鏡に映した顔では満足できそうにないです。
だからこそ、僕は一人で生きていきます。
完全な矛盾ですが、僕はそうありたいと思っています。
誰かが居ないと生きていけないとか、誰かのためにしか生きていけないとか、
それはとても悲しい事だと思うからです。
何も決められない子供から大人になって、もちろん全部を決められるわけじゃない。
十年後の予定も、明日の天気も、今日見る夢だって決める事はできません。
ならせめて、心の中身だけは自分で決めたい。
感じる事は自由です。
思う事も願う事も自由です。
それが誰に笑われるのだとしても、心までは誰にも縛られたくない。
そして自由は責任でもあります。
みんなが意味も無く走っているなら、僕も走るでしょう。
そのせいで転んだとしても、僕はそれを誰かのせいにしたくない。
僕には走らない選択肢もありました。
別に誰かに相談しても良かった。
途中で休んでも良かった。
僕は僕で選んで、走って転んだのです。
そこに後悔はない。
そういう人に僕はなりたい。
自分で選んで、自分で歩いていく。
その果てに何が待っているのかなんて知りません。
その途中で、また色々な人と出会うのでしょう。
訳の分からない奴や、いけすかない奴や、嫉妬するような奴まで。
笑ったり落ち込んだりしながら、ふらふらと進んで行くのでしょう。
そしていつかどこかで、自分と同じぐらい大切な人と出会ったのなら。
その時に片方はおんぶしてもらって片方が苦しいのではなくて、
支え合って、歩いて行けるのなら、一番いいです。
人はみな一人では生きていけない。
でも、だからこそ一人で生きていかなくちゃいけない。
僕らの人生が平行線の道なのだとしても、
いつかすれ違ったならきっと手を振るので、
振り返してくれるとうれしいです。
それでは。