(わたし自身のこと)
好きだ嫌いだ言う前に
相手の言葉が、入っていなかった。
自分の好き嫌いの感想をいうだけだった。
人が絡まないことなら
嗜好だから、自分の世界をつくるという
側面もあるから
別に、悪いとは思わない。
かわいいなぁ〜
メシがうまい、あの服が好き、
あの景色がきれい、
どうぶつかわいい、降るような星々を見て感動
そういうやつね。
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18歳のとき、天狗の鼻がぽきっと折れて
図に乗るということが、なくなった。
同時に、自虐がひどくなり、
同時に、他人の立場に立ってモノを見ましょうという
それまで、一切、死んでもやりたくなかったことを
するようになった。
そこから、私はこう思うんだから
あの人もこう思うに違いない、の
決めつけがひどくなっていった。
それ、自分の好き嫌いの感想言ってるのと
同じ思考回路だぞ!
いいことがあって、わーっと
心からよろこんでも
鎮火までのスピードが早くなった。
誰かの賛辞を、受け取らなくなったのも
その頃からなのかなぁ・・・わからんけど。
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デッドラインという名の、強制終了にぶつかりながら
そういう面も、自分軸で見れば、
なんか違うなぁって思うようになって
変わるというのは、周りにどんな素晴らしいコーチがいても
最後には、
自分の内側からの、自然なタイミングを待つことでしか
心からは変われないんだなぁとか
ゲー、意味わから〜〜ん。
でも、このひと、今の状態で、とても幸せそう。
じゃあ、いいのかぁ〜とか思うようになって
だいぶ薄まってはきた。
他人事のちょうどいい、のはなし。
++
昔好きだった男の子
友達だと思っていた人、
受け取れなかった言葉
ゆるさないまま縁を切った人
宛メで、とうとうとしていたお返事。
誰の何も、見えていなかった。
まず、言葉が入っていないのに、
好きだ嫌いだ、よう言ったもんだわ。
子供の頃から慣れ親しんだ、私を追い込んで来たものを
全部捨てる。
誰に頼まれてやってるわけでもないのに
一人で、枠を作って、その中で苦しいとあがいていた。
そうすると、仮想敵も出来るので
恨みつらみも多いに決まってる。
苦しかった、前者アプリは
全部置いて行く。
講座でも、ミッションと言われている
「外食にて、汚くメシを食い散らかして帰る!」
私、最初、これ、出来なくてね・・
それは、ひっくり返すと、そういう人のことを
バカにしているとこがある。
だから、自分もそう思われたくないから
「お里が知れる」なんて、思われるのが一番屈辱だから
てのがある。
親に習ったしつけを、〜ねばべきレベルまで
真に受けて今も使っている。
私は、
育ちが悪いと思われるのがすごく嫌、ってのがある。
書きながら、感情に問うてみると
それは、やっぱり、他人軸へのしがみつきですわ。
(評価主義)
今は、なんと、牛丼屋でもご飯粒たくさん残して
食べ終えられるようになりました!
で、講座でも言われた通り(まじで)
そのどんぶり見ても、違和感がなくなってきた。
(他人のも)
ここで、×をつけていたものに、◎がついた状態です。
で、あんたどうしたいの?です。
うーん、やっぱ、ごはんはきれいに食べると思う。
でも、数粒くらいは、残ってても、気にならない。
許す、許可するって、小さいことの連続だけど
こういうことの繰り返しなのかもなぁ。
(他力、ありがたや)
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親も私も、もちろん子供時代も含め
私を知る人が、一切知らない顔がある。
もう、なにもかも、視点が変わるのだろうと思う。
あの人が好き、この人が嫌い。
全部変わるだろう。
今より前のすべて、何も残らないだろう。
そう思って、今日も歩きながら
ろ過してみたら、
さかつめさんはじめ、背骨系の人は
変わらずすきでした。
(おー!ということは、今に通じるものがあるのだなぁ)
尊敬があるからだろうな。
ボストンバッグに入れても、カラカラ音が鳴るほど
何も持たないリスタートで生きていく。
口だけ番長になったら、
少し休んで、
また、そのとき、そこから、リスタート。
人生は続く!