ふおお!PCの宛メってこんな感じなのですね。
親が妙に厳しいうちでは携帯を夜に取り上げられてしまうのですが、
今いろいろ考えていて、突然はっ!となったので、
忘れないうちに文字にしておこうと思って夜中にPCを立ち上げた次第です。
やるべきことに身が入らなくて困っていました。
なにか理由があるのかとずーっと考えていて、気付きました。
私、失うのが怖かったんだな、って。
中学の頃、自分の好きなことも、体調も、プライドも、
いろんなことを懸けて、取り組んでいたものがありました。
認められたくて、「誰か」のために2年間を費やしました。
頑張って頑張って頑張って。
けれど、終わった後に残ったものは何もありませんでした。
体も心もボロボロになっても、
「誰か」は僕に手を差し伸べてはくれませんでした。
たかだか中学校の課外活動で自分が壊れるほど熱を入れる、
というのもおかしな話であり、馬鹿げたことなのかもしれません。
しかしあの頃の、そして今の私にとって、
それは自分の存在価値に関わると感じられるほど、とても重要だったのです。
そういうわけで、自分は失うことが怖いのだなぁ、とさっき気づきました。
怖くて怖くて、
そして過去に失ったことが悔しくて悔しくて、泣きました。
でも、疑問に思っていたことがわかってすっきりとしている面もあります。
以前ある人に言われました。
好きなものは好きで、嫌いなものは嫌いでいいんだ、って。
だから、いい子の私は、言えないから、悪い子の私は、ここで思いっきり吐き出してしまいます。
勉強は嫌いじゃない。
けれど、学校は嫌い。
頑張るのも嫌い。
能力があるって言われるの、嫌だ。
私、頑張ったもん。これ以上、頑張るのは嫌だよ。
大学受験に、将来のために、全てを懸けて、それで失敗したら、
今度こそなにもかもなくなってしまいそうで、
怖い、怖いよ。
このことに気付いたからといって、自分が今後どうしたいのかはよくわかりません。
多分、ちょっとやそっとで
微熱や頭痛の症状が出なくなる体に戻るわけではないでしょうし、
夜眠れたり朝起きられたりするわけでもなさそうです。
遅刻も欠席もせずに学校に行ったり、
動悸や息切れなしに自宅の机に向かうのも、そう簡単ではないでしょう。
でも、少しでも何かを変えられたらいいなと思います。
先日の小瓶にもアドバイスを頂きましたが、
私、多分今変わるべき時期だし、変わりたいと思っているので、
貪欲に足がかりを求めていくつもりです。
少し寝て、明日の単語テストの勉強をしようと思います。
これ以上日本史の授業を休むと留年してしまうけれど、
気持ちの整理がつかなかったら、思い切って休んでしまおうかな、なんて(笑)
最近こういう吐き出し系というか、自分の内面に関する小瓶ばかりだったので、今度は嬉しい小瓶を流したいな。
…ふぅ、すっきりしたぁ!!!
47218通目の宛名のないメール
お返事が届いています
ななしさん
Googleで検索したらここにたどり着きました。
りぃふさんの文章好きです。
ななしさん
はい、どうも二通目です。
そうです私です(白目)前に続きよくわかったなコノヤロー(しゃくれ顎)
(この返事はほぼ補足なので、返信はなしでもOK)
うーんと…、まず距離感について。
大学の合否が存在価値に関わるって感じてしまうのはまあしょうがない。それだけ頑張って向き合おうとしてる、って事だからかもしれないしさ。
でね、大事なのは、あくまでりぃふさんの場合で言えば、怖さを感じつつも自分の考えた行動を取ろうと、動く事が出来るか?
動こうとする意思が、自分で見えるか?って感じのところだと思う。どうしても感覚になるから、曖昧になってしまって悪いんだけど。
それが見えなく、感じなくなってしまう時は、まだその距離感では上手く動けないみたいな。
なんていうか、いつかその場所(距離感)で動く事が適切だって時は来るかもしれないけれど、それはまだ、少なくとも小瓶を書いた時点でのりぃふさんでは難しかったんじゃないかって。(←人は常に変わると思っている持論から)
そんな感じに動ける距離感も人それぞれの感覚だと思うんで、はっきり言えないんだけども、ゆっくり気が向いた時にでも探せればいいと思う。
(…実のところ自分自身の置かれている状況にも寄るものがあるので、すぐに変わりやすく、捉えにくく、詰まる所一度や二度でわかるようなものではないと思う。なので、まあ「てきとう」に何度か、気が向いた時やってみていいんじゃないかと)
で、人によるかもしれないって事に尽きるけど、その丁度いいとでも言える距離感は、各々に各々の場所というか、複数あるみたいなんだよね。
だから、もしかするといつの日かは近付き過ぎるのが丁度いいポジションになる事もあるかと思うんだわ。(その方が勢いよく頑張れる事も時々で、あるというか)
故に、俺がこれと言える正解はないんだけど、まずある程度動く事の出来る距離感を、維持する事が出来るようになれば、意図して丁度いい距離感も保つ事が出来るようになるかもしれない、みたいな。
それでね、記憶についての事はね…
大きな、大雑把な括りでいうと、これも距離感の問題になっちゃうもんだと思ってさ。
無意識だとか体とかって、逆の立場的な意識している自分みたいに、よく勝手な事をするんだよね。こうしたらよくなるんじゃないかって思ってるのかどうかわからんけど、そんな感じに。
だから、今は思い出さない事が、現状にとっては適切な距離感だと、無意識が判断しちゃってるのかもしれないって事がまず1つ。
それで、俺もね、やらかした!って思うような自分やら、他の誰かやらに申し訳ないような過去を、だからこそ忘れたくない、同じ失敗を繰り返したくないと思う事が、あくまで個人の範疇を超える事はないけどある訳ですよ。
そんだら、ある事は思い出せても、ある事は思い出せない。忘れちゃったと。そして、また同じ過ちを繰り返すのかとこれまた何度も思った訳なんだけどもさ。
どうやったって同じシュチュエーションが戻って来るわけでもなく、同じに思えたとしても、過去は過去、今は今で、似たように感じるってだけで、本当は全く同じ事なんか何1つないんじゃないかと思うんだよね。
だから、その時大切でも、実際似たような事に直面したとしてもあまり意味がない場合がある。
それどころか、同じ事態に直面したと思って、前と同じように行動した所で、全く同じ事態ではないのだから、目が曇ったような判断をする事もあるんじゃないかと思って来てる。実際あったし。
過去のあやまちから学んだ大事な事もあるとは思うけれど、それが活かせるのは、厳しく捉えると本質的に過去の記憶の中の出来事だけでしかないんじゃないかって俺は思ったんだ。
それに、確かに忘れる事もある。けど、所詮忘れた程度では、過去何かをしたという事が無くなる訳でも打ち消される訳でもなくて、ある意味呪縛とも取れるんだけど、肯定にもなるんじゃないかって。
忘れたとしても、自分がどれだけ成長したのか。変わったのか、あるいはほんの少ししか、ほんの少しだけでも変わったんじゃないのかを知る事ができる。
あんまりりぃふさん以外の他の人に自分の持ってる意味でこの言葉を読んで、判断してほしくないんだけど…(あと、人や状況をよく選ぶ言葉なので、個人的に無闇矢鱈とは使わないで欲しい)
過去の時間はなくならない。取り返しも付かない。消す事も出来ない。自分があり続ける限り。(生死問わず)
だからこそ、過去は過去のその時その時、今は今のその時その時に、もし失敗をしたと感じる事があれば、取り返そうとする事も、完全に記憶からなくなる前に、変えられる何かがある内に行動した方が、例え後悔があるにしろ、いいのかもしれない。
その上で、そうしなかった過去も含めて、仕方がない。と、俺は思う。より良くしようという気持ちはあっても、遠ざかる程に手は届き辛く、その事にも取り返しは付かないから。
むしろ、そういう気持ちは、良くも悪くも取り返しが付かないからこそ、良くしたくなるものなんじゃないかと。
全部大切な事だからね。けど、大切な事だからこそ、大事にした方がいい事、距離を取って遠くから眺めた方がいい事。
つまり、大事にしすぎて周りが見えなくなる事、遠ざかりすぎて、大事なものがぼやけて見えなくなる事、そういう事には、自分が気付ける範囲で気をつけた方がいいかもしれないと。
綺麗事に感じるかもしれないとは思いつつ。
体とか、無意識とかいう機能的な面には、心のあり方は一生わからないものなのかもしれないけど、それはこっちも一緒な訳だし、ともに進んでいるという事だけは確かな事だと思うよ。
体としては、決して失う訳ではなくとも、忘れるまで、遠ざかるまでのタイムリミットが来てしまった、という話で、側にある心はそれに同調する事が難しいという事かもしれない。
それと、何にせよ気持ちだとかいう、この世にあるものは引き合う性質を結果的に持ってる場合が多いからね。
同じ過ちを繰り返す事が怖い、その怖さが、言い方悪いけど自分の認識を捻じ曲げて、同じ過ちを引き起こす事もあるんじゃないかなって思います。
過去に向き合いすぎるのも、距離が近過ぎる場合と似たような事が言える面もあるかもしれないなあ〜。みたいな。
置き忘れたとしても、大事な事は再び相見える。
常にそこに在るのだから。(今日の標語的な)
過去の時間も、割とすぐそこにあるものだと思うかな。
そりゃあ、手は届かないんだろうけど。
…もしも過去の自分を検索して、あの時の気持ちが今わからなくなった、わかりづらくなったと感じたのなら、忘れたんじゃなく、距離感が変わったんだと思うよ。
要所要所忘れていくとしても、忘れる事も込みで大事な事に繋がる可能性もなくはない。その時、もしかしたら、また思い出せる事もあるかもしれない。勿論、ないかも、しれない。
…因みにね、逆の場合も当たり前のようにあるんだろうけど、高校なり大学なり中退した人でも、社長になったりしてる人もいるみたいだからね。
生きている限り、そして求める限り、存在価値は増え続け、変わり続けていくものだと思うかな。(求めるのなら終わりなく)
それが大事な場面だというならそう意気込むんのも良し、馬鹿馬鹿しいと思うならそれでも良し。どちらかがいい、別のものがいいと言うならそれも良し。両方がいいというのなら、またそれも良し。
考えるというなら、それこそが、きっと存在価値の一部分に関わってくるだろうと。
ま、俺が言えるのはこれくらいかな。
新しいものへの挑戦にしろ、変わりたさにしろ、応援するよ。
常に宛メにいる訳じゃないから、お返事できなかったり読めなかったりあるだろうけど、気が向いたら返事すっからな。
今の状態から勝手に推測するなら、壁に当たった時もこんなに必要ないんじゃないかと思うけど(笑)
りぃふ
(小瓶主)
お返事ありがとうございます。
今回は纏めて返答させていただきますね。
この小瓶を流したあとも色々考えました。
失いたくないものは「時間」です。
前に色々なものをなくした中で、1番大きかったものは時間です。正確にいうと時間にまつわる記憶、でしょうか。
その3年くらいの時期の記憶が、すっぽり抜け落ちて、わずかしか残っていないのです。
何か大事なものを、どこかへ置き忘れてしまった感覚。
思いだそうとしても思い出せない。
大事なはずの何か。
また同じことが起こるのが、怖いのです。
そしてそれ以上に、2通目さん(蛾蝶さん…でしょうか。違っていたらごめんなさい)のおっしゃるとおり、
失敗して、それに耐えられる自信がないのです。
別に大学に落ちたって生きることはできるのだから、ここまで怯えるのも馬鹿馬鹿しいとは思うのです。
しかし、今度は大学への合否が自分自身の存在価値に関わるようなことに感じられます。
そんなことはないと頭ではわかっているのですが、やはり怖いです。
距離を取ること。
正直、逆のことをするべきだと思っていました。
やるべきこと、逃げてはならないことだからこそ、距離を詰めて向き合わなければならないと思っていました。
恐怖に足をとられる寸前だったと、お返事を読んで気づきました。
小瓶を流す前から、新しいことに挑戦しています。
正直この時期にこんなことをしていていいのかと罪悪感を感じていたのですが、出力80%をマスターするため、怖いことから距離を取るためにはうってつけじゃあないかと、ふと思いました。
自分のやっていることに、少し、確かさを確信したというか。
そういう感じです。
自分自身を見つめながら、近づきすぎないように、上手に向き合っていこうと思います。
変化は怖いけれど、やっぱり私、変わりたい。
そうして準備が整ったら、扉の外へ飛び出していけるように。
もがいてみます。
壁にぶつかったら、小瓶を流すので、その際にはまた助言をいただけると嬉しいです。
ありがとうございました!
ななしさん
今もまさに頑張ってきている。お疲れ様です。
「誰か」の為から「自分」の為に。1つの変化だね。
宛メでぽつぽつ端から見てただけだけども、頑張ったじゃん。案外過去に「自分の存在価値に関わる」と感じたように、今ここにいる為には大事な事だったのかもよ。
長くなりますが、参考までに。
言ってる事がおかしいとか、当てはまらないとかならスルーでOKなので(笑)
失礼に当たるかもしれないので、予め断りを。
失う怖さが自分の中にあると自覚した。
その人の言ってたように、好きなものは好きで、嫌いなものは嫌いでいいと思います。それに加えて、怖いものは怖い。
けどね、その人がどういう意図で言ったにしろ、その上で大事な事が俺にはあると思うんだ。
俺も勉強…というか学ぶ事は嫌いじゃないし、学校は嫌いだった。その時選んだのが、学校も何もかも手放す事。自分語りになってすまないけど、自分で一杯一杯で、周りも自分の事も見えてなくて、何をしたいのか、何が自分にとって大切だと思えるのか解らなくなって、自分を傷付けた。何もかもなくそうと思ってた。それこそ全てを掛けようとしてね。
それでも全てを失う事はなかった。いい意味で自分に負けたし、生き汚なさとでもいうものを知った。
よく考えて欲しい。
頑張るのが嫌なのは、それはそれでいいと思う。無理はしたくない。いたって健康的だよ。
けど、まあ言われるまでもないかもしれないけど、小瓶の中で言われているのはあくまで、全てを賭けて失敗して、それに耐えられる自信がないって事でしょ?
確かに自分の将来の事だ。でも、受からなくても生きている事は出来る。その事で、全てを失う事だけはあり得ないよ。
前置きが長くなったけど。
全てを投げ打って、自分の全てを賭けて、それで失敗してしまう事は辛い。
でも、今直面しているのは、そういう恐怖なんだろうか?
はじめて、怖さだとか、怒りだとか、よくわからない事に直面すると誰だって戸惑う。
戸惑って、一時的に物事を最大限、広い見方で深く見てしまう。散り散りになっていたスポットライトが当たるというか、ピントが合うというかね。
危険が含まれているかもしれないから、見極めなければならないって、ね。
それはそれで大事な事。
でも、それで周りが見えなくなる事がある。
だから、距離を取った方がいい時もある。
だから、好き嫌い、怖いという事があると自覚したなら、時には怖さに飲まれてしまわないように、近付き過ぎていかないように気を配った方がいいかもしれないよ。
近付き過ぎないで。近付く事が避けられないとしても、恐怖に自分を取られないで。
もし足を取られそうな時は、最初はよくわからないかもしれないけど、距離感を確かめてみて欲しいな。
百パーセント全力でやれば誰だってすぐに疲れる。それは頑張るにしろ、休んだり距離を置いたりするにしろ同じ事。
いろんな持ってるものを使って、色々考えて、何かに向き合うんだからそりゃそうさ。
やり過ぎれば疲れて擦り切れたり、伸び切ったゴムのようになって柔軟性を欠いてしまうけど、それもそれで大事な事。
だから出力は、最大でも80パーセント位で力を残しておけば、休んで回復する事にも趣味や遊びにも使えるかもしれない。
それは、余裕があるとも言えるけど、真剣になって取り組もうとすれば、必ずそれも全力になる。例え余力があったとしても、先の事もちゃんと考えて余力を残す訳だから。
無理しすぎず、一瞬一瞬を大切に生きる。
その言葉を意識する必要はないけれど、それは、自分を大切にする事でもあるし、自分に負けない…とか言うように、人や見えているものに関わらず自分と周りとの距離を掴むためでもあると思うよ。
それが自分の内側から湧いて出てくるものなら尚更の事だね。
めげてしまうりぃふさんもそれはあなた自身。
自分がしたいと思えるならそれでも構いませんが、嫌いだと思う自分から距離を取り過ぎる事もないと思うんです。
自分の内にあるものですからね、今までりぃふさんが少しずつでも変わってきたように、人によっては変わりたくない理由もあるかもしれませんが、変われない訳はないんです。
誰かが変わりたくないというならば、変わらないものも確かにありますが。
自分の内の何かを見つめる事。
たとえそれが否定や拒絶だったとしても、それは自分自身を受け止める事だと思うんです。
自分の内の何かを自覚する事。
それは自分自身を認めてあげる事だと思うんです。
人には意図せずとも、自分を守ったり、バランスを保ったりする作用があるんだと思います。
これからどうするのか。行くもよし、休むもよし。
それはあなたが考えて、見極めてください。
どうするかはあなた次第とも言いますが、それは誤解されやすい言葉で、何もそれはあなた一人だけで考えろと言う意味の突き放しではありませんからね?
まあ、それを弁えきれず言いふらしまくっていた愚か者もここに一人いるのですが(苦笑)
過去は過去です。今同じ失敗を繰り返す道理はなく、不安なら対策を考えるだけの話だねー。
それも1つの勉強。そして勉強に対する1つの頑張り。1つの頑張りに対する勉強と違わないかい?
最後に、適当に印象に残るような事を言ってみたいだけなのですが…
扉は常に開け放たれています。いつか必ず、心を開く者のために。
ななしさん
自分のために自分のことは自分で決めて生きたい。けれど、実際に実行することは難しくて、苦しんでいるというように解釈しました。
分からないのが、「失うのが怖い」なのですが、何を失うのが怖いのか文脈から考えても理解できませんでした。良ければ教えて欲しいです。自分がたりの小瓶だと思うので、無理なら大丈夫です。すみません、個人的に気になったもので・・・
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。