皆自分が見たいように世界や他人や自分自身を見ている
良くも悪くも
人の言うことに真実なんて一つもないし
自分の見たもの聴いたもの感じたものも真実ではない
事実を事実のまま、ただの出来事としてとらえてはいない
主観的思い込み、邪推、面白半分の憶測、疑いもしない常識や偏見、感情のコンディション、あるいはもっと意図的な何か
あらゆることがそれを邪魔している
他人勝手自分勝手に世界は動いているのになぜか正当化され調和している
信じられるものはなんだろうか
名前のない小瓶
47491通目の宛名のないメール
お返事が届いています
ななしさん
他人と自分が違うことを理解しているから、調和出来るんだと思います。
主さんはカレーが好きで、私はカレーが嫌いだとする。
主さんは私のこと変だと思いますか。カレーを美味しいと思わないなんて人としておかしい、頭が狂ってると思う?
そこまでじゃないでしょ?
多分、「まあ、嫌いな人もいるよねー」くらいで済ませるでしょう?私も同じ。
だから私達はお互いを攻撃せず、喧嘩にならない。
カレーの部分を宗教とか文化とか、恋愛観とか、学力や運動能力の差とか、そういうものに置き換えても同じこと。
逆に絶対許せない、自分が正しいと憤る人がいれば、争いが起きる。国同士なら戦争が起きる。
私達は確かに、見たものや聞いたもの、善悪や美醜を自分のものさしではかります。
しかし、主観的思い込みがあっても常識が違っても、他人にもそれぞれものさしがあると知っているだけで、喧嘩にはならないんですよ。そこに調和が生まれる。
大切なのは、まず理解です。
主さんはいくつのものさしを理解出来ますか?
例えばあなたの主張と違う「思い込みなんか無い!」という意見が出てきたらどうですか、耳を傾けられますか?
信じられるものとは、そうしてものさしを見せ合って、わかり合えた先に見つかります。他人から「これを信じろ」と示してもらえるものではありません。
名前のない小瓶
その通りだと思う。
でもそれって悪いことだろうか?
人間が感じるものにはいろいろなバイアスがかかっている。だから目に見えるものを誰かに伝える事も案外と難しい。
同じ月を見てるのに、方やウサギで、方や少女、方やカニみたいに、全然違うようにとらえるのはまさにクオリアなのか?
だけど、それでも世界が回っている。
みんな自分勝手他人勝手なのに。
しょっちゅう隣人と喧嘩してるし戦争してるのに。
その理由はさっぱりわからないけど、みんな違う感性を持っていて自分は良かったと思うよ。
伝える事が難しいからこそ、人間は言葉を作った。文字を作った。記録媒体を作った。
信じられる事実が儚げだから、人は神を信じ、神話を紡ぎ、童話を記した。
みんなが同じことを思う/感じるのなら、きっとこの世のすべての芸術が、なにより音楽が、特にロックンロールがなかっただろう。
だから自分はこれで良いと思う。
そういうものが無い世界なんてひどくつまらないからだ。
ただ、もしそんな曖昧な世界の中で何かを信じるとしたら、それはもう心の動く方向しかない。
考えるよりも先に体が動くなら、思いが焦がれて仕方ないなら、それが独断と偏見に満ち溢れたものなのだとしても、そもそも全ての事実が思い込みの産物なのだから、それはその人にとっての『事実』だよ。そしてそれを信じてみるのも、そう悪い事ではないと思うんだ。
まあ、何時ものように長くなったけど、この宛てメでも、一人だったら思い至らなかっただろうなぁという意見に出会うことがあって、読んでよかったと思うことばかりだ(もちろん、この手紙もそうだ!)。
何が真実がは知らないけど、あなたが考えているあなたにとっての『事実』、機会があったらもっと聞きたいな。
まりちゃん
>自分の見たもの聴いたもの感じたものも真実ではない
って、思うんだねー!
万人共通のなにか?でないと、安心できないのかなぁ?
それは、わたしは、あると思うけど
こころのうんと深い部分で感じるもののことであって
表面的な、嗜好、価値観などだけみたら
ひとの数だけ、違うのが「普通」なのではないかと思う。
先月、講演会セミナーで、講師の人に
「わたしは、普通になりたいんです!」って言ったら
(合宿前だったから、心理的に切羽も詰まっていて)
「みんな違うのが「普通」っていうんだよ〜〜」と
たらり〜〜んといわれました。
わたしもそうだったし、今でも癖があるから
少しだけ理解は出来ますよ。
自分=固定、していないと不安な時期が長いですし。
だからこそ、他人や、既存の社会的価値観に
ぶらさがることで、安心を求めてきましたが
それ自体、よくみれば、所詮、最大公約数で、
一人一人は個人です。
個人をよく見ていけば、ある目的のために一時的に
「そういうことにしましょう」を守っていたり
一時的に、ちょっとガマンすることを選んでいても
「わたし」という視点から見たら、
本音はみな違うと思います。
煮ている人がいても、相似はない!
だから、他人同士は、合わさった時におもしろい。
揺れながら生きていく、
以前、飛行機の旋回と同じと比喩した話を聞いたことがあるけど
、今、こうして書きながら
実感として、前よりは、ほんの少し、感覚的に理解出来るところが有ります。
自分を生きるか、放棄をするか?
それは、企業に属していようがいまいが
家庭を持とうが持ちまいが
あまり関係の無いことです。
少し、話が脱線した感も有りますが
思ったことをお返事させて頂きました。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。