再確認の小瓶。
昨年、ODをしてわかったこと。
私は衝動に抗えない人間だということ。
衝動で死のうとする人間であるということ。
だから、いつ死んでもいいように、
後悔せずに生きたいと思った。
後悔せずに生きる、というのはどういうことだろうか。
私は正しく生きることだと思う。
自分が正しいと思うことを貫いて生きたい。
その正しさは時にわがままで自己中心的となるかもしれないけれど。
そこは「自分に」正直に生きる、ということで(笑)
真っ直ぐになりたい。真っ直ぐ在りたい。
最近、ここの大事な部分が揺らいでいる気がする。
やるべき事、やらないで言い訳したり。
保身のための嘘をついたり。
私は気持ちの波がけっこう大きいから、
気分が乗らなかったり反抗的になったりすることもある。
けれど、
やるべき事はこなさなければならないし、
嘘は良くない。他人にも、自分にも。
誇れる人生を送ろうとは思わないけれど、
正しく、後悔せずに生きて、死のう。
私は、今死んでも
後悔しないように生きている?
私は、正しく生きている?
今一度、足元確認。
48045通目の宛名のないメール
お返事が届いています
烏羽
いやあ、言い訳になっちゃうんだろうけど俺、ただ思い浮かんだ言葉の羅列ばっかだから、俺がどう思ってるかは、伝える上で一番に重視してないんだ。(と気付いた)
どう捉えられても何でもいいと思ってる時が多いんだよね。一応こう捉えて欲しいなって思って努めるのはあるし、文面だと思う思うをなんども使いはするんだけど(笑)
りぃふさんがさせてしまったというか、ややこしい話俺も説明になる言葉が足りてなかったというかね。
それと表現としての言葉が少し(少し、と自分で言っていいものなんだろうか?)強かったかもしれない。
こちらこそすみません。
過去の話です。(というだけだとまた言葉が足りない気もするが)
うん、まあ俺じゃなかったらこいつは自意識過剰だと思って見逃してくれ(苦笑)
あと、ちょっと補足。
あれだぞ、色んな事を知る為には、自分の信じる事、信念を貫こうとするというか(みたいな感じかね?)…
なんつったらいいかなあ、真っ直ぐそれに向き合って、それを信じる…ってだけじゃないというか…
疑いつつも信じたり、信じきれなかったり、ゆっくり、疑いまくったその先にやっと信じる事も時にはあるというか…
その、自分の感じた事を見逃さない上で「も」自分が信じれる正しさを見つけられる事があるというかね。
りぃふさんの思う「真っ直ぐ」の中に疑うとか、自分の感覚?みたいなのに正直に、って言うのが含まれてて、それで信念のようなものと向き合うっていう事だったら、そういう事。…かな?多分。
因みに、人間(という生き物)である以上、やっぱり死角はあるし、今あるもの、今まであったものからでしか、考え方のベース(というか視野?)を構築し辛い気がするので、「どんなものからでも学ぶ事ができる」のはいい視点(考え方?信条?)だと思うよ〜、うん。
実際何からでも学べるものはあると思うし。それによって沢山の考え方や視点を知りやすくなるかもしれない。
…事細かい気もするが、何にも知らない、という訳でもあるまい(笑)
培ってきたものは頼りないかもしれないが、そのお陰で色んなものを得る事が出来たと考える事もできる。
勿論の事、ちょこっとくらいは、自分でもあると思えるものが、在るんじゃないかな。
多分その積み重ねが自信というか、自身をも作っていくんだろうしさ〜。
言葉に出す出さないでもないだろうから、そこはまあいいや、思ってても思ってなくても。
やってみてれば多分解る。
余白は大事よ。いつまでも。(←締めの標語みたいなやつ)
りぃふ
(小瓶主)
5通もお返事!ありがとうございます。
今回はまとめて返させてもらいますね。
「正しく生きる」というのは、自分の信じることを真っ直ぐに、ということで、
決して道義的・一般的に正しいことを自分に嘘をついてまでやるということではありません。
まぁ、結局自分の信じる正しさの大部分が道義的な正しさに被ってきてしまうところはあるのですが。
言葉少なで、私の意図と多少ずれた解釈をさせてしまったところがあるかと思います。
ごめんなさい。
すべてを知ったと思わないこと。
中学の頃の自分が、まさに間違えた方向に何かを「悟った」状態でした。
そういうものから少しずつ脱却しつつある今です。
知らないこと、たくさんあります。
まだまだ知りたいこともたくさんあります。
探究心を持って。
何も知らないのだという自覚を持って。
謙虚に謙虚にいたいです。
臆病かつ、堂々と。
いつか、全部笑えるようになったらいいな。
そういえば、過去に別の名前で流した(間違えた方向に悟っていた)小瓶には、
「あなたは間違っている」といったお返事がたくさんきたけれど、
この小瓶には「あなたは正しいと思う」「最後の問いかけにはっとした」と書かれていたり、私の考えを肯定的に捉えてくださるお返事があつたりして、
あぁ、考え方が変わると、同じ人の文章でも真逆の捉えられ方をするんだなぁと
なんだか不思議に思いました。
これも成長…?(笑)
ありがとうございました。
ななしさん
やりたいことをやったらいいんじゃないでしょうか。
知りたいことを知ったらいいんじゃないでしょうか。
折角、世界に地球に生まれてきたのならば。
死ぬのは色んなことを吟味してみたり、経験してからでも遅くないと思うんです。
ここはなんだか遊園地で怪獣ランドみたいなところだから。
危険な場所や暗くて怖くて不安になるようなスリリングなものもあるけれど、その反対にワクワクするような明るくてキラキラした楽しくて安心な分かりやすいものもあるはずです。
……とはいえ、ガイドマップが分かりにくいというか、無いようなものだというのが難点ですが、ヒントはそこら中に転がっている筈ですし、あなた自身のコンパスも侮れないし何でも使いようですね。
それで、どうにかこうにか、ここで真剣に今日を遊んでいくうちに自他について学んでいけることがあると思うし、あなた自身の正しさもしっかりと明確になってきて乗りこなしていけるかもしれない。
いつかに願っていた今が、あなたの今になる日が、早く来るといいけれど、そのための自問自答はやっぱり自分で試していくことが必要です。
そのうちに、きっと、もっと自らで気付いてくることもあるはずです。
その果てで、爆発してしまっても、それでも残っているものが、本当に素晴らしくて大切なことかもしれない。
私も死にたくてしかたない日があったんです。でも、それも切っ掛けになってくれました。自分を知るための。
そして、今はずっと見ないフリをしていたことについても遂にすべてを赤裸々に認めてスッキリとして、彷徨うことすら繰り返した果てにすべてを並べて自分なりの結論に落ち着いているのです。
本物の自信や真実や自白や正しさや安らぎというものは、結局のところ時代や環境やその他の何ものによっても左右されるようなものではないのだろうということも、確信しながら。
どんなにレンズが塗れていたとしても表面ではなくその奥底に、輝かしいものが全ての底に透けていることも。
表面すらも部分ではなく全貌を理解しようと追っていけば、裏も表も見えなかったものが明らかに見えてくるのです、ありふれていることを理解するというのがとても大変なことなのです。
あと、多分、誰しもが、どこかで分かっていることかもしれないけれど、色々な自縛の固定観念や周囲の抑圧などを振り払って、祈りを叶えたり、望みを貫くのは、なかなかに難しい状況というのがよくあります。
けれど、思いは一つでも道は一つだけじゃなかったり、色々なやり方やあり方を選ぶこともできるものです。
正しいだけじゃ正しくないこともあったりするのです。
ここでは色んな事情が混乱するほどに絡み合って混ざり合ったりもしているから。
あなたの意志はもちろん大切です。気の持ちようでひっくり返ってしまうことも沢山あるからです。
ただ真っ直ぐには変わりなくても色んなルートがあると考えた方が気が楽になって人生に挑戦できるかもしれません。地図は真っ直ぐな道ばかりではなくて、それでも目的地にたどり着ければいいのだから。
最良の選択を速やかには選べない時もあります。遠回りが結果として近道になる場合もあります。世界は不思議で単純だけれど複雑だから。
時には少しずつ変えていくとか正しさに沿っていくようにするのも一つの手ではないでしょうか。
衝動を制することも、己を律することも、少しずつ。
そういう考え方も念のために持っておくといいかもしれません。
ななしさん
最後の問いかけに、はっとしました。
毎日死にたいと思って生きてるけど、正しく生きれるまでは死なないでおこうと思います。
烏羽
揺らぎか。
そうだなあ、その時の自分がどういう行動を取りやすいのか、取りやすかったのか。
そして、その行動を取った自分がどう感じ、それに対してどうしようとするのか…
それも経験だな。
今は自分のわからなかった事が、きっとわかり始めてる、かもしれない最中だろうから。
答えを求めて考えすぎちゃやーよ。行動こそが教えてくれる。かもしれないから。
真正面に、真っ直ぐに生きてこれなかった、生きたかったままに、辛かったり苦しい人、いつの間にか大人になってしまった人は…
もしかしたらその、真っ直ぐであろうと背筋を伸ばそうとする姿、過程を見て、訳もわからず言い訳だと捉えたり、真っ直ぐ故に軋みを生んでしまう事もあるかもしれない。
それをわかってやれとは言わない。
でも、言いたい事を言った方がいい事もある。
それが絶対でもなくて、その逆に、流れに任せた方がいい時もある。
それでも、最低限、何処かで譲れない一線のような、気配りというか、思いやりというのか、忘れないでくれよ。
真っ直ぐ生きようとするのは、今まで大なり小なり、良くも悪くも歪みがあった、そう考えるからこそなんだと思うから。
こんな事を言うとまあ、何を知ってるんだとか気色悪いとか思うものだろうとは考えるけど、宛メで垣間見た分だけは、こんな書き方になってしまうが、お節介を書かせて頂きたい。
もう、あまり自分を偽るんじゃないよ。
自分を許せなくなったとしても、仲直りは出来る事、分かち合える事。
あと、知らない事がいつまでもあると言うか、全部わかったつもりになろうとしない事。
それらは、確かな事は言えないけれど、絶対役に立つと思う。
自分でも纏まってなかったが、俺が前言いたかったのは多分、そこら辺だな。
正しさとはなんなのか。後悔とはなんなのか。
俺にもよくわからない。
でも、考え続けるとも。常に形成中だとも。
よ…余計かもしれんが、俺なりに細かく言えば、衝動に抗えない、一面を持つ、或いは持っていた、かもしれない人間なんだからな!
わかっているかもしれん上であえて言うが、今がどうなのか、正確にはわからないと思ってるよ。
常にそれを、良くも悪くも揺るがすのは、自分だと思っている。
なのでそこは…良い意味で怖がっとけ(苦笑)
正直な話、自分を許せないと思えば思うほど、無くそうと思えば無くそうとする程、自分から離れてしまうものなのかもしれない。
無くそうと思う事がいけないのかと言われれば、そうではないと思う。
ならばその怒りが、悔しさが、許せなさがいけないのかと言われれば、俺は違うと思う。
それらを抱いた事に対してまた、例えば情けないとかなんとか思うそれも込みで、自分自身なんだと思うかな。
そう感じる事、たったそれだけが、自分を認める事なんじゃないかな。
気分が乗った時、乗らない時、上手く自分の思いを表に出せない時、出せる時、いっぱいあるさ。
それが伝わる時、うまく伝わらない時もある。
気が乗ったそん時に、また確認しようぜ。いつでもいい。
生き死にあっても、果てはないんじゃないかと思っているよ。
何がだって?
「何」がさ。
だから良くも悪くも、いいんだよ。きっと。
間違える事も、嬉しい事もあるかもしれない。その足元で、きっと。
自分で生きる。
当たり前の事。でも、当たり前じゃない事。
忘れても正しいさ。
細かい事を忘れても、原点がある限り。
都合の良さも悪さも、いい意味で自分に、公平に素直であれれば、何を忘れても、何かしようとするものが見えてくるかもしれない。
それによって、自然と練り上げられていくのかもしれない。
臆病かつ、堂々と。
矛盾のある言葉だが、なんの事はない。
きっといつか、考えじゃなく、感覚でわかる事があるかもしれないな。
…なんとなく、もう片足突っ込んでそうだし(笑)
まあ、アレだ。
俺はただ、思いと浮かんだ言葉を並べてるだけだ。
自分の考えを持ち寄って見ただけで、最初から独り言でしかない。
自分にしろ他の人にしろ、ホントはそういう事があるのかもな。
だから、真っ直ぐな人に対する、言い訳に思う事とか軋みだとか、それも本当は、終始独り言なのかもしれん。
あれこれ理由を考えても、本当は明確な理由なんてないかもしれん。
良くも悪くも、それらを経験などと結び付けたり、離したり、その繰り返しなのかもしれん。
いつか、気付けば、手は届かずとも、空は近い。
楽しみも苦しみも、よかったと。良い悪いではない、よかったと。
そう思えたらいいよな。
ななしさん
私も衝動的に死にたくなります。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。