もやもやっとしていること。
嫉妬の感情は、
まぁ抱いたことがないわけではないし、
他人に対する苦手意識も、
これまでに何度も感じてきた。
けれど、
ここまで人を嫌いだ!って思ったのは、
というかそもそも他人を嫌いだと思ったのはこれが初めてで、
(父親に対して似たような感情を抱いたことがあるけれど、あれはどちらかというと侮蔑だった気がする)
真っ黒な自分に、ショックを受けている。
見たくなかった、自分の一面。
嫌いな人と顔を合わせる度に、
泣きたいほどイライラして、
しかめっ面になって、
罵詈雑言を吐きたくなって、
相手を痛めつけてしまいたくなって、
なんなら、寝る前に刃物でグサッとやる妄想をしている。
(自分でも怖いと思った)
嫌いの気持ちをどこにぶつけたらいいのかがわからなくて、苦しい。
当然だけれど、嫌いの気持ちを全面に出すと怒られてしまうし。
精一杯の反発をしているはずなのに、
ぎゅーっと
自分を押し込めているかのような感覚。
どうしたら心穏やかに過ごせるのだろう。
どうしたら嫌わずに済むのだろう。
醜い自分が嫌いだ。
自愛するためにも、上手に「嫌い」と付き合っていく方法が知りたい。
48422通目の宛名のないメール
お返事が届いています
りぃふ
(小瓶主)
烏羽さん
お久しぶりです。いつもお返事ありがとうございます。
まだ完全に消化できたわけではなくて、自分への確認の意味も込めて読ませていただきました。
嫌いの感情は甘えたい欲求の変形。
なるほどって、すとんと落ちてきました。
たしかに、嫌いの感情の奥には認められたい(≒甘えを許されたい)気持ちが裏切られた(実際に裏切られたわけではなく、自分がそう感じるきっかけがあった)ことによる寂しい・悲しいがある気がします。
気持ちの循環をつくること。
やってみたいと思います。
愚痴を全く言わないというわけじゃないけれど、あまり他人を悪く言うのは好きじゃないので、溜め込むなりの溜め込み方・流し方というのを試行錯誤しながら、マスターしていきたいです。
選り好みするようになったのはいつからなのか。
色々考えてみましたが、やっぱり「認められたい」を裏切られたと感じたのがきっかけだなぁと思います。
現在の自分の中の課題である承認欲求の壁がここでも立ちはだかっているなぁと、呆れを通り越して感心してしまいます(笑)
秋頃から自分を取り戻し始めて、心情や価値観が変化しているなと感じています。
今回の「嫌い」の感情もひりひりするし、好きじゃないけれど、人間臭いというか…
認められたくて「模範的な人間」の型に自分を押し込めていた頃の自分には感じられなかった痛みだなぁと思って少し嬉しくもあります。
「強調」してしまうこと。
たしかに怒りや憎しみに任せて、相手の欠点や非を必要以上に強調しているのかもしれません。気をつけていたいと思います。
目標はあくまでも指標だということ。
かつての自分なら、目標の達成がすべてで、ガッチガチに自分を縛り付けていたような気がします。
今は脱「ねばべき」ということで、だいぶゆる〜くなったので、現在考える「最高の理想」にもし辿り着いても、意外と臨機応変にシフトチェンジしていけるんじゃないかなぁと楽観視しています。
これもある種の成長!?(笑)
ありがとうございました!
6通目の方(2回目)
わざわざお返事してくださって、ありがとうございます…!
解毒のために自分の考えを伝えること。
自分の気持ちと向き合って言語化して、上手に付き合っていきたいと思います。
ありがとうございました!
ななしさん
6通目の者です。
貴方の小瓶の文末に、
「醜い自分が嫌いだ。
自愛するためにも、上手に「嫌い」と付き合っていく方法が知りたい。」とありましたので、お返事致しました。
嫌いな人という毒に触れ、飲み下し、蓄積されていく醜い感情は、やがて心身を蝕まみます。
今、貴方の望む選択は、「嫌」から目を背け放る無関心を徹底する方法ではなく、「付き合っていく方法。」
蝕まれていく流れをストップさせずに、付き合っていく方法を選択する貴方にかけられる言葉は限られます。
毒に浸潤されていくスピードを緩める気休めの方法しか見当たりませんでした。
それ故に、宛名のような場や貴方が身をおく現実の世界で思考を人に伝える、流布する行為を以て、解毒の為に吐き出す事も大事と記載を致しました。
言葉が足りず、悩ませてしまいました。申し訳ありません。
烏羽
俺的にはタイムリーかもしれない話題だな。
長文なので、読む時はお時間頂戴。
しかも、時期的に解決してんじゃないかなーって気もしますが、書きたいので書きますわ。
誰か、何かに対して憎いとか、殺意を抱くとか、それを感じている自分に対しての気持ちとか。
誰かを頭の中で殺すとか、まあそういう事もあるっちゃあるけど、実際にはしないし、そもそもなんか罪悪感を感じるしで、積極的にはならない。
…イメージしてる時はまるで別人にでもなったように、怒りを妄想で撒き散らしてるんだけどねー。
それですっきりするんなら別にいいんじゃないかな。(と思ってる)
でも、したくないとかになってくると、イメージは良しとしても、嫌いだとか怒りだとか、そういうものが湧くこと自体を抑えるのは、個人的に物凄く難しいと思う。
心の変化そのものって、結構あっという間に終わっちゃってるっぽいんだよね。
ただ、自分の中の事ではこういうのって、事細かには書かないけど、実は誰かに甘えたいだけ(の変形)なんじゃないかなあ、とかも思ってる。
自分自身への理解、寄り添いって意味で、そう思う事や、そこから考える事なんかで自分を律してる、感情を流してる感じかな。俺は。(完全に出来るとは言ってない)
変化そのものがすぐ終わるっぽいとはいえ、変化の方向性を決められない訳でもないみたいだから。
気持ちの循環を作ろうとするというか、少しだけでも変えられると思うよ。
(※あんまりにもショックが大きい出来事に対して循環を無理に作ろうとすると逆効果になる事もあるので、できなかったら諦めて別の方法を)
(んまあ、方法と言っても、考えないなら考えないで、多分意識してない部分の体が勝手に、生存に大事な選択肢を選んでくれてるんだけどね。自分もその一部とは言え、ショックに対処してくれてるのも、殆ど与かり知らぬ事だし)
変えられると言ってもあくまで、自分自身だけで出来る事と言えば、だけど。
正直言って、嫌な事だとか、自分がすると嫌な事、されて嫌な事を相手がしているとか、そういう時って口に出して…言い方はあるとは思うし、別に直球じゃなくても(嫌味とか皮肉の意味ではなく)いいんだろうけども、少し落ち着けたと感じた後に伝えた方が、気持ち的に楽かもしれない。
状況によるとかしか言えんので、絶対とは言えんがね。
内に溜め込むなら溜め込むなりの溜め込み方、流し方。吐き出すなりの吐き出し方。
自分自身が嫌じゃない方法での方法を模索する、と言うのも、一つの手じゃないかな。
あとは、観察する余裕があるなり作るなり、時間の経過で出来たなりすれば、自分が嫌な事を感じていたりする時の、自分自身の行動をある程度予測する材料にもなる。
それによって、自分への理解を深めて、対策なり、方針なり、自分の目標なり、色々考える事も出来る。
…と、そう考えたりしながら、やり過ごしたりしてる。
嫌いとか、反対に好きとか、その中にあって自分を見つめようとする事で、理性は鍛えられるとも思うし、感情は心の中から湧き上がるとも思うけれど…、同時に理性も心の中から湧き上がってるものだとも考えてます。
吐き出すだとかぶつけるだとか、出すやり方。溜め込む(これも一応、自分にぶつける、と解釈できなくもない)だとか、そうだねーとか、そう感じてるんだな、とかで流すなどのやり方。
他に憎しみだとか怒りだとか、そのエネルギーを何か、運動だとか創作だとか、別のものを行う際の原動力にしてみるとか。
(ある程度冷静な部分を残すってか、注意は必要なので、あまりオススメしないが一案として。多分慣れない最初にかなり失敗する。というか俺はした)
やり方はいろいろあるだろうけど、自分のその時の状態によって取れるとか、取りやすいとかのやり方の違いもあるだろうし…
あー、ただ、蓋をするとか、見ないようにするとか、あれは自分じゃないんだと、自分から離れるような、そういう認知の歪みを起こさないようにはした方がいいかもね。
自分を見つめる際の…自分自身への解釈や、自分自身がする認識への邪魔になる事があると思う。(俺的にはある)
時には受け入れ難い事を認める事も、認めたくない気持ちに気付く事も、反発したい気持ちがある事も、必要なんだと思うよ。
どれも溢れかえる程、過剰には必要ないんだろうけどさ。(もし自分を試したいなら、それをわかってる上であえてやってみるというのもありっちゃありかなー)
でも、なんだかんだ言って自分が「あれは自分じゃない」、と自分に嘘を付いている事を認識してれば問題はない場合も、あるっちゃある(笑)
その場合は、あくまで反省ありきでね。
もしも根本から覆すとすれば、誰か(の要素)を嫌いと思う自分を、醜く思う、その思いが何故出てきたのか…
というよりも、少し耳障りの悪い言葉だが、いつから選り好みするようになったか、疑問を抱く(結果、価値観を変える)のもいいかもしれない。
最初はそんなん、良くも悪くもなかったと思うし。
多分、その選り好みが倫理や思いやりにも繋がっている事もあるんだろうし、繋がる事もあるんだろうしさ。
そう考えると、醜くはないだろうし、例え醜いとしても、悪いもんでもないだろうと思うよ。
自分なりに考えた結果、生物的には、嫌いだという思いや不快感を得て、相手から離れようとしたり、なんで攻撃的になるかと考えると、恐らく、そもそもが自分自身を守る為の一つの手段だろうからね。
(以下、なんとなく偉そうに思ってみたポエム。面倒くさかったらアレだぞ、流し読みでもいいぞ!)
もし求める、己の価値観の中の、綺麗さがあるのなら、それは汚さの上に成り立たなければならないものなのだろうか?
そういう訳でもないから、人は片側の理想を求める。
でも、何故「そういう訳でもない」のかが判然としなければ、本当の片方を手に入れる事も出来ない。
しかし、本当の片方を手に入れた時、それは意味の終わりなのだ。
その時、人はまた、大海原へ自らを投げる。
そして改めて、「泳ぐ」という事を知る。
完璧を求めるのは素晴らしい事だ。
だが、完璧であるのは面白くない事だ。
何もないのと同じくらいに。
だから、楽しめるなら、楽しめ。
味わえるなら味わえ。求める事を。
上手くいかないその苦しみは、向上があるからこそなのだと。
理想というもの程、叶ってから面白くなくなるものはない。
そして、これ以上果てのないくらい、想い描けるものも、なかなかない。
だからこそ、面白くなくなる事が面白いとも言える。
嫌わない、という事は、一つの方向の、強い関心がない、という事でもある。…多分。
確か誰かが宛メで言っていたが、自分にしろ他者にしろ、好きになれなかったからこそ、なのだろう。
嫌いのままで良いのだ。無理に好きになろうとする必要もない。
あまり理想を求め過ぎると、それはいつの間にか自分への押し付けになってしまう事もあるかもしれない。
…この長文のようにな!!
いや寧ろ、理想を解き放ち過ぎるとこんな長文になってしまう可能性があるのだよ!!!
…と、今気付きました。(書きたい事書きたいとか言う理想)
だから、なんというかまあ、上ばっかり見てると首が痛くなったり、目がチカチカしたりするので、時には首なり肩なり回してストレッチやら、目を休めるやら、横を見るなり、自分の立っている足元を見るなり、脇道にそれたりしましょうや。
それと、怒ってる時とかは忘れがちなんだけど、多分、人はイメージする上で、何かを頭の中で強調するのが上手い。
自分の事も相手の事も、都合よく(というか強調した上で)解釈してしまう事が多いと思うんね。
それには良い面もあるけど、悪い面もある。
悪い面もあるけど、良い面もある。
りぃふさんが感じたような、そういう問題点があったという事よな。
反省はいいが、理想…というか目標を求める上で、あくまで目標は目標、目指すための指標の一つなので、それはこの先本当に最高の理想なのかどうかは、先に行かなければわからんし、その都度変わるかもしれない。
あれこれ書いたけど、そこを見直してみるのもいいかなーと思いました。
りぃふ
(小瓶主)
まりちゃんさん
いつもお返事ありがとうございます!
まりちゃんさんの仰るとおり、これは私にとって転機となるはずなのです。
相手に自分の短所を投影して嫌悪しているというよりは、
相手がまるで鏡のような人で、そっくりなのに正反対だから、私が欲しくて欲しくてたまらないものを持っていることに嫉妬している感じです。
父との件は、私と父がそれぞれ心療内科の診察やカウンセリングを通して少しずつわだかまりが溶けつつあるところです。
ありがとうございました!
2通目の方
お返事ありがとうございます!
自分の感情を観察して、受け入れも抗いもせずにそうなんだぁと思うことが難しいなぁと思いました。頑張ります。
3通目の方
お返事ありがとうございます!
嫌いな人の一人が、同居している身内なのでなかなか関わらないというわけにも行かず…
悪口は言わず、程々につきあう。
頑張ってみます。
4通目の方
お返事ありがとうございます!
おっしゃるとおり、私は「嫌い」の感情をものすごく悪いものだと捉えていました。
嫌うことは良くないと思っていました。
嫌いな気持ちを認めてあげること。
上手にできるかわかりませんが、頑張ってみます。
ありがとうございました!
5通目の方
お返事ありがとうございます!
たしかにその通りですね。逆に言えば感情があるからこそ嫌いという感情も湧く。
感情のない機械人間になれたらいいのにと、時々思います。
6通目の方
お返事ありがとうございます!
ほどほどに距離を置くのが良い、という解釈でよろしいでしょうか?
自分の気持ちを言語化することをを意識していたいと思います。
ななしさん
嫌な気持ち。
生理的・本能的に受入れが困難な嫌いな人。
それは、自分を向上させる薬のような存在でしょうか。
良薬口に苦し。
そうはいっても、
少量とはいえ毒は毒。
適正と思われる受入れ容量を、誰もが守って自分の為に服用するけれど、
短期間で自分を高める兆しが望めず、副作用が出てしまうなら、嫌いな人という名のお薬は、服用を中止しなければならないでしょうし、
身体・精神的に問題が無いように思えても、やはり薬が毒である以上、長期間の服用は生命維持の為にも避けなければならない。
難しいものですね。本当に。
解毒の為に吐き出す事も大事だなと私は思いました。
ななしさん
嫌いってのは感情があるからこそだよね。
嫌いとさえ思わず、無関心でいられる人って他人に関心も無ければ嫌いになるような事さえもそんなに無いと思う。私がそうだから。
ななしさん
「嫌い」って思う気持ちを許してあげたらどう?
仕方ないよ。
だって嫌いなんだもん。
嫌いな奴が死ぬ妄想なら、私も何度もしてる。
それでリフレッシュする。翌日は普通に相手に接する。
性格悪いね。腹黒だと思う。
でも気にしない。
だって私、そんなにいい人じゃないからね。
私は働くの面倒くさくて事故や大雪で電車停まらないかなって思う時あるし、毎回バイトのかわいい子にセクハラめいたこと言う取引先のオッサンはクビになればいいのにと思うし、コネ入社で入ってきた専務のバカ息子には脳みそをチンパンジーと取り替えてきたら?お猿の方が頭がいいでしょ?と思ったりする。
そこで「ダメダメ!こんな事考えちゃ!性格悪い!」と、自分の本音に対してまで偽善者ぶるのなんか、意味がないと思う。
だって現在、嫌いな人相手に対して充分優しい顔して偽善者ぶってるんだから。自分の黒い気持ちくらい許してあげないとストレスで倒れる。
何というか、「嫌い」という感情を、ものすごく悪いものととらえていない?
「嫌い」だからこそうまく距離をとろうとするし、波風立てないように気を使ったり出来る。「嫌い」を認めてあげるから、その上で自分がどうしたら気が楽かを考えられる。
無理に「嫌いじゃない」「嫌ってはいけない」とポジティブな気持ちを作り上げて距離を縮めようとするから苦しいんだよ。だから「いい子でいよう」「嫌われたくない」と過剰に思う人は疲労困憊するし爆発する。
自分で認めてあげたら、心にストンと落ちてくる。自分は嫌いでいいんだと思えて昇華出来るから、気持ちをぶつけることもない。
私達は人間で、神様じゃないの。
優しさ、思いやり、自己犠牲精神、それを常に持っていなくてもいい。使いたいと思った時だけ使えばよし。
では、私は嫌いを胸の中におさめて、専務のバカ息子がいる本社に行ってきます。
ななしさん
嫌いなら関わらなきゃ良い
そのかわり嫌いでも 悪口とか言わない事
嫌いだから相手を貶めるなんて幼稚な人間のする行為だから
仕事関係なら程ほどに付き合う
ななしさん
相手に対しての想いは自分を映す鏡だ、とも言われます。
自分が持っているからこそそれがわかるというやつです。
誰かがべらべら喋るとイラっとくるのは、自分だって喋りたいとか、または何かを我慢している(この場所は静かにするべき、など)のに好き勝手しやがってという想いがあるからです。本当は自分もあんたの様に喋りたい、が隠されている、らしい。
だからりぃふさんが感じられるように、持っているから同時にそんな自分が嫌になる。
これはもう、ああ、自分はこの人のこれが嫌なんだと、観察者になるだけです。受け入れるでもなく、かと言って抗うでもなく、そうなんだなあーと思うこと。そのうちなにかが変化してきます。
持ち続けることで変容が起こります。
まりちゃん
あら*やったじゃん!
すごいチャンス。(よかったね!)
自己受容して、生きていく(自分を愛する)って
この頃の小瓶に、結構書いてたじゃん。
今の、この状態、それの布石になるよ〜〜
あのひといいひとね〜と、相対的には
そういう、呼ばれ方をしている人がいたとしても
聖人君子はありえない。
それなりに、喜怒哀楽や割り切りが難しいことも
あると思うよ。
エグいこと言うと、嫌いな人の嫌いな面って
おなじ要素、自分も持っていることが多い。
ただ、露見する機会なく、今まで来ただけって
可能性も大いにある。
お父さんのこと書いてあったけど、
そっちが先かもね。
人間のひな形って、人格形成期(4−5歳くらい)っていうし。
それを手に、家族以外の人と絡んでいくことが大半だから。
と、おもったよ〜〜〜〜!
またね*
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。