…そもそもだ。
自分の精神を守るための行動と、
ただ手を抜くという『甘えた』行動、
自分には、その区別をつけられる自信がない。
自分自身に起こっている出来事、自分自身の行動さえも、
休んでいるのだか甘えているのだか分からない。
自分のことですら分からないのだから、他人のことなどそうそう分かりやしない。
だから自分は、苦しいのだと訴える他人の証言を、ひとまず信じる事にする。
鬱で寝続けている人、単に起きるのが面倒くさい人、
他人目には同じ『ただ寝ているだけ』という行動のように見える。
だが、鬱で起きられないのだというのなら、きっとそうなんだろう、と。
苦しみは他人同士で分かち合えない。
苦しみを客観的な数値に表すことは出来ない。
他人の感覚の殆どは、その人がどんなに言葉を尽くしても自分には伝わってこない。
たぶん、そういうものなのだ。
だからこそ、
自分には分からない苦しみを、存在していないと断言するのは、間違っている。
この問題について、以前からずっと考えていた。
自分なりのはっきりした意見を掴みあぐねていたが、ある方の小瓶を読んでようやく固まってきた。
当然、そんな性善説が悪意で利用される可能性もあるが、そんなことは瑣末な問題だ。
世の中が厳しいものだとしても、理不尽なものだとしても、せめて自分だけは…