昔から僕は熱意も無く、夢もなく、能力も無く、人並みの努力ができず、対人関係を築けないと散々であり、それこそ幼稚園、小学校低学年頃から自分が社会に馴染めないと言う不安を抱えてきた。そう言った強迫観念と、年相応の夢もあるにはあったが、僕は何も成し遂げられなかった。何もだ。自分の中でそれは自明なことであるから、能力のない僕は何ら価値を持っていないということで、さっさと死ぬべきだったのだ。しかし死ぬことすらできなかった。こんな調子なのに、現世への未練だか自殺失敗への不安からなのか、できなかった。今でも情けなく思っている。昔から死んでしまいたかったのだ。いじめられたり、叱られたり、人として当たり前の事が出来なかったりで、死ぬべきだったのだ。その時点で。死んでしまえば悩みも何も起きないというのに。社会に順応できない人間であるから、生きる価値と言うのは何も無いと言えよう。人間は生きているだけで価値があるとは言われているがそれは嘘であって、それは、生きてるだけで価値があると言っている人が価値を勝手に見出しているというだけの話であるわけだ。僕は、生まれた時から社会から切り離されたも同然であったわけで、さっさと死ぬべきだったのだ。だって死んでしまえば、あらゆるしがらみや感情から開放されるのだから。
名前のない小瓶
49948通目の宛名のないメール
お返事が届いています
ななしさん
価値なんて自分や誰かが見いだして初めて生まれるのさ。
どんなに素晴らしい人も無能なクズも、価値を見いだす人がいなけりゃ同じ。
烏羽
何、「生きているだけで価値があると言っている人が価値を勝手に見出している」と考え付けるだけの能力はあるんじゃないか。
それを表そうとする能力もあるんじゃないか。表す事も成せているんじゃないか。
恐らくではあるが、人が価値を勝手に見出している、という意味は、人は生きる事に価値を見出す事が可能、という事でもあるかと思う。
もしもそれが価値全体の事だと、全てに対して価値を見出せる事だと仮定するならば、俺は主さんにそういう能力を見出した、という事でもある。
それが、しがらみというものかと思う。
小瓶の文面からの引用にはなるが、主さんが人並みとする熱意、夢、能力、対人関係、それらが何もないと思う事、それもしがらみの1つかと思う。
そして、それに対して死んだ方が良い、と思う事もまた、しがらみの一つと言ってしまえばそうなのかもしれないな。
その逆に、それらがあると思う事、生きた方が良いと思う事もまた、しがらみの1つだと思う。
生きているだけで価値があると思えるようなしがらみを抱える人もいれば、主さんのように、それは嘘であると思えるしがらみを抱える人もいる。
俺は抱いた夢や希望を成し遂げる事が人並みだとは思えない。
熱意や能力を昇華出来る事が人並みだとも思えない。
思うに、それが出来ない事もある、というも含めて、普通だと言える事なのではないだろうか。
つまりは、「人並み」というのも、しがらみなのではないかと思う。
辛い、苦しい、悲しい、虚しい、自身に対する苛立ち、憎しみ、あるいは他人に対する憤り。そして不安。
恐らくそれらは裏を返せば、成し遂げたいと思うからこそ、上手く事を成したいが故、振り返ればもっと出来る事があったんじゃないかと思うが故の、憤りではないのだろうか。
果たして、死にたい思いを昇華しても良いものなのだろうか。
もしも、もっと出来る事があったのではないかと思えていたのなら、それこそを昇華するために、しがらみを抱えてみても良いのではないだろうか。
価値を見出せるという事は、自分自身に対して価値がない、価値がない事が価値なのだと、見出すのも可能ではあるだろう。
思うに、価値…、あるいは意味を見出せる事そのものが、生きている上での大きな価値であり、それと向き合う事でも、また新たな価値を作って行けるのではないだろうかと思う。
個人的な、勝手な想像ではあるが、死ねば意識はないんじゃないかと。
しがらみや感情から開放されたという感覚もなく、開放自体の概念もなく、死んだという感覚もなく、生きていたという感覚もなく。
ただ、強く思った事は、体から溢れて残留思念となる可能性もある。
残留思念に意思がある…というより、思念という、人間でいう感情のようなもので、いわゆる本能のように動くため、その強い想いに従って、苦しみや痛みのようなものも抱え続けるだろうと推測する。
推測の世界で、真偽は不明であるが、「ような」というのは、死んだ後があると仮定すれば生きていた頃とは異なるものである可能性もあり、そうではない可能性もまたある。
ただし、死んだ、と人間が仮定したように、どうであれ生きているという言葉で認識している状態と異なる状態になる事だけは明確なので、もし生きていた頃と似たものを感じても、それは本質的、実質的には異なるものになる可能性が高い、と恐らくは思われる。
あくまで、死んだ、と「仮定した事」に重きを置くが故の、言ってみればそれをしがらみにした話の流れではあるがね。
小瓶主さんが思い描き、見出す「死」の形があるように、俺も死の形を思い描き、見出す事が出来る。
強いていうならそれは「人並み」な事ではなく、自分にしか思い描けない形の、自分の能力の、氷山の一角のような表れとなる。
人それぞれ思い描く、ある程度の水準としての人並みはあるだろうけど、多分同じような能力を持っていたとしても、言葉の面通り、「人並み」というものはないよ。
その考え方から言うなら、今自分が持ちうるものが、現在の自分の当たり前であって、それを他人や過去と比べる事は出来るが、事細かに比較する事はほぼ無理というか、それぐらい難しい事じゃないかと思う。
人として当たり前な事、それが本当に存在しているとするならば、それは生きて、死ぬ事だろう。
あとは、価値や意味を見出せたり、判断できたり、という事だろうか。
俺には、それぐらいしか共通点が見出せない。
人という文字に込める意味も、それぞれあるだろうから。
まあ、とにかく、死にたい為の価値作りが出来るのなら、その逆も出来る可能性はあるんじゃないかな。
辛い思いをした、苦しい思いや悔しい思いをした、だからこそそう思えない、そうしようと思えないなら、無理に価値作りや、探そうとして欲しくはないけどね。
自分が落ち着いたり、もしも、したくなったらでいいから。
やる必要は特にないんだけど、価値を持ってない事が主さんの中で問題だというのなら、いっそ価値を作ってみるのもありなんじゃないかと思ってさ。
時間は掛かるかもしれないけど、能力を伸ばして行く事も出来るだろうし。
ななしさん
小説家になれそうな文章書くね
もっと自分勝手に生きてみたら?
社会に適応するんじゃない
君のルールを基準として社会を選ぶんだ
まりちゃん
自分が、自分から切り離してどうするんだよ!
>社会に順応できない人間であるから、生きる価値と言うのは何も無いと言えよう。
死ぬのは、順応にしがみつく、の真逆を
本気でやってからでも遅くないよ。
以下はまだお返事がない小瓶です。
お返事をしていただけると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。