いい加減、自傷以外でストレスを発散する方法を見つけなければならなかったのかもしれない
4年前、『リスカの傷跡が消えるまで我慢する』というルールを自分に課した
納得こそできなかったけれどその決まりは必要だったから、『意図的には』自傷しなくなった
その代わりに、私に残った性質は6つ
・家族へ必要以上に当たり散らしている『自分』に気が付いて心底ゾッとしたこと
・『どうすれば自分を害することが出来るか』を冷静に計算している自分に気が付いたこと
・意図しない(=狙ってやっていない)怪我ならOKにしていたから、元来の『怪我を回避しない』という性質がより強化されたこと
・私の頭の中で聞こえていた、『どうすれば(周囲の人間に恣意的だとバレずに)怪我を得られるか、自殺できるか』を提案してくれる声に同意しかけることが多くなった、『我に返る』までの時間が日に日に延びていっていること
・鏡など反射するものに映る自分の顔をふと見た時に『こいつ誰だっけ?』と考え込む一連の動作回数が増えたこと
自傷を我慢する前が週7回なら、今は週30回くらいだろうか
・包丁など刃物を握った時、『これを家族に突き立てる』シーンをとっさに思い浮かべるようになったこと
世間一般で言うところのストレス発散方法を軒並み試したけれどどれも上手くいかない
自傷に手を出した最初の時から『手当てするための医療品が勿体ない』(『物に八つ当たりして壊すなんて勿体なさすぎる』)という気持ちは抜けなかったけれど、なまじ自傷に慣れていたからその達成感を他では得られなかった
そういえば私の自傷理由は自罰感からだった
相手を自分が信じてしまったがために裏切られたように感じる
ならけじめを付けなければならない
未来の自分が同じ轍を踏まないようにしなければと考えた
だのに、いつから達成感を覚えるようになったのだろう
傷跡をなぞって自己満足したいから、だろうか
現に、今でも傷跡をなぞれば安心できる、まだ頑張れると思う
止血できなかったからやむを得ず訪れた保健室で、養護教諭から「縫合しなければならないレベル」だと評された時の達成感は忘れられない
だから、担任経由で私の自傷を知らされた母から「ケガをちやほやして欲しいんでしょう」と言われた時、不快感よりも先に疑問が湧いた、『なぜわざわざ傷を見せなければならないのか、注目して欲しいならいっそ誰かの目の前で切っているのに』と
病みつきとはこういうのを指すのだと思う
それでも、中途半端に我慢したものだから、今まで自傷という形で発散していた私の暴力性は行き場を無くした
結果がヒトに八つ当たるだなんてお粗末にもほどがある
謝ることは出来ても私自身それはエゴでしかないと知っている、何の解決にもなっていないし私のことだからどのみち繰り返す
害しようとする声に自ら身を任せるのは、今となっては映画を見ているような気分だから大した問題ではない
乖離していく様子をただじっと見守るのもつまらなくはないと思っている
冷静に狙いを定めて、怪我をする算段をつけているのも、慣れたからどうでも良い
幾度となく乗っ取られてそのうち何回かは病院に駆け込むことになったけれど、それも必要なことだったと思える
あれに完全に抗えなくなった時、私は死ぬのだろうと予想している
鏡の前で考え込むのも、きっと必要なことなんだろう理由は思いつかないしカウンセラーの先生もお手上げ状態だったけど
しかし、家族に、他者に、周りの品々に八つ当たりするのは本意ではない
自傷出来た今までなら我慢できたものが、ここに来て大暴れするのはつまらない
暴力性を振るいたいなら自分へ向けるべき
私の自傷は友人1人に受け入れて貰えたけど、その子のおかげで自傷したいという誘惑に耐えることができたけど、それでも自分以外には向けてはいけないと思う
でもどうすれば良いのか分からない
父がため息を吐くのは、私を指して母が「気違い」「失敗作」・妹が「空っぽ」「ネジが外れている」と称する理由は、この辺にあるような気がしてならない