大学のカウンセリングルームに行き始めて一年半、精神科に通い始めて一年、今更になって精神科の先生から病名が出た。
統合失調症と言うことになるらしい。責められているような声や思考が止まらなくなったりする。今は薬のおかげでマシにはなった。
前々から精神科に通っていたけど、いざ名前を聞くとショックがある。なんというか、自分の中の劣等感に名前をつけられたような感じだ。
メンヘラとかキチガイとか、色んな言い方が精神疾患のある人にはつけられる。自分はそういうのは普通の人たちの嘲りだと思っていたけど、違うことに気づいた。
「メンヘラ」とか「キチガイ」とか、そういう言葉は乱暴だけど曖昧で。統合失調症とか鬱病とか解離性障害とか、そういう医療的な、専門用語で「隔離」されたように感じる人たちにとってはそういう「乱暴で曖昧」な区分分けの方が気軽に仲間意識とか共通項を見つけることができて居心地がいいんだと思う。
自分は多分、そこまで酷い方ではないと思う。ネットの記事や本に出てくるような、妄想に取り憑かれた(本人に取っては妄想と言われるのは心外かもしれないしこういう言い方は失礼かもしれないけど)人とは違うし、色々あって精神科に担ぎ込まれたけど有無を言わせず強制入院、みたいなことにはならなかった。
保健室の先生にはしきりに入院を勧められたけど、強制入院じゃなくて自分の意思で決める余地があったということは多分、そこまで酷くはない、のだと思う。わからないけど。
自分はこの夏休みから東南アジアに半年間留学に行く。一応、その間の精神科の薬はまとめて処方できるらしい。それでもやっぱり不安だ。
煙草を吸い始めた。自分はきっと留学先で不安定になるから。頓服の薬が足りなくなったとき、何か縋れるものがないと取り返しのつかないことになりそうだから。
確実に身体に悪いのは分かってはいるけど、「今すぐ死にたい」を「いつか身体に悪い影響が出る」に変えられるなら、それでいいと自分は思う。
どうせいつか死ぬ。病気の具合が悪くなったら、それこそ今すぐにでも自殺してしまうかもしれない。だったら煙草でも酒でもカフェインでも、依存できるものには片っ端から依存して命を繋いだほうがマシじゃないか。
煙草が身体に悪いからやめたほうが良いと言う人がいるけど、正直そういう人が羨ましいと思う。将来、家庭をもっている自分が想像できない。そんな自分は将来いないような気がする。
本音を言えば自分は大学院を出るまでに死にたいという思いがある。大学ないしは大学院にいる間はカウンセリングルームのカウンセラーさんや保健室の先生が自分のことを気にかけてくれるけど、社会に出たらそんな人は居なくなる。
だれも自分に興味なんてないし、本当に独りぼっちになる。死んでもだれも悲しんでくれないし、誰の記憶にも残らない。今死んでおかないと、誰からも知られないまま自分がいた痕跡も全部まとめて消える。だったら今、気にかけてくれる人がいるうちに死んだほうが幸せのような気がする。
自分は結局のところ構ってほしいだけなんだと思う。誰かに甘えたいのだと思う。そうじゃなかったら独りで死ぬことに抵抗なんて無いはずだから。甘ったれている自分は大嫌いだけど、どうやったら甘えたい感情に蓋を出来るのか分からない。
伴侶に甘えを求めるのは正しくないと分かっている。男女平等と言っても、何だかんだ女は女らしく家庭を守れと言われるし、男も金を稼いで大黒柱にならなきゃいけない。母親や父親のような伴侶を求めたところできっと関係は長続きしない。
どこまで考えても袋小路だ。支えてくれるカウンセラーさんや保健室の先生には申し訳無いけど、大学院を出るまでには自分は死ななきゃいけないとしか考えられない。
死ぬのは怖いし苦しい。いつか思いきらなきゃいけない時が来るのがとても怖い。今のお気楽な学生生活に陶酔できるのもあと数年しかない。支えてくれた人達を皆裏切って死ななきゃいけないのが心苦しい。できればこんなことは考えたくない。
だけど死ななきゃいけない現実は変わらない。とても怖い。本当は死にたくない。生きていたいけど、それを社会が許してくれない。
ななしさん
こんにちは。
半年間の留学ですか。少し心配ですが、気晴らしになって、人生の何かが掴めたらいいですね。
思うに、死にたい、死ななければならないと考える人達(私もです)は、考えすぎる病にかかっているのだと思います。
貴方様もとても賢い方なのだと、文章を読ませていただいて感じました。
依存に対しても的を得ている。
精神科の著名な先生が仰っていたことですが、
「人は依存をする事を悪いことと評しがちだが、それは違う。
むしろ、健全な人ほど、多くの、たくさんのものに依存先を増やしているから健全でいられるのだ」と。
全くその通りだと思います。誰にも甘えてはいけない、依存などしてはならないと思う人が、何の愉しみも見つけられなくなった時、人は精神を壊します。
だからたくさんの人に依存したほうがいいし、たくさんのものごとに依存するのが幸福なんだと思いますよ。
日本は、〜すべきという価値観が蔓延していて、なかなかこの声を打ち砕けないですが。
病気である、もしくは○○である自分は死ぬべきだ、などと思っていませんか。
まずその感覚が、こびりついた認知の間違いなのではないかと思うのです。
とはいえ、自分自身を責めることは全くありません。社会や環境がそういう思考を作り上げているのですから。
あなたはまたとても真面目で、誠実で、謙虚であったからそれらを忠実に取り入れただけです。(ただし、それらの特徴があなたにとってよいかどうか、またそのように感じさせる社会構造がいいかは、また別ですが)
あなたはとても賢く、客観的に物事を理解できる強さがあります。
そのため、森田療法という認知行動療法が効くように思います。
その前に自分の状態や認知の歪みを理解できる、知識を取り入れる事が大事になりますが…
図書館などで、「鬱は治る努力をやめれば治る」という専門書がありますので、おすすめします。(少し古いですがうつだけではなく、いろいろな精神的病状に対応した本です)とても丁寧に客観的に精神疾患を解説され、完治までの経緯を追っていますから、安心できると思います。
最後に、
できればこんなことは考えたくない、と思われる気持ちがあるのでしたら、病気を、怯えずに真っ直ぐに捉えることから始めてみてください。
大丈夫、逃げるから怖いのです。私も逃げ回りましたが、いざ理解したら何だ。そんなことか。と思いましたよ。
メンヘラ、精神疾患、なんて言葉だけに追い詰められて逃げ回るほうが、ずっと地獄のようだった。
まず、知らねば治すことも出来ないのです。もっと言えば、人に甘えることも出来ない。人と触れ合うにも、知識が助けてくれます。
死にたくないの声は生き物として当たり前の声。あなたの病の中で揺れる中での微かな健全な声。
優先してもいいのではと思います。